ザ・登城TOPへ
ザ・登城

中国地方

備中(岡山県中部)

秀吉の天下執りへの起点と、清水宗治の荘厳な最期

備中 高松城 (平 城) 【所在地】 岡山県岡山市高松

 築城時期:  永禄年間末期(1570年頃)  築城者:  石川久式

びっちゅうたかまつ じょう
浮世をば 今こそ渡れ 武士の
名を高松の 苔に残して

清水宗治 辞世

落日の高松城址

“城攻めの天才”羽柴秀吉 清水宗治の高松城を水攻めで包囲!

 戦国乱世のうち続く天正初期(1576年頃)、「毛利両川体制」を構築し中国地方制覇へと版図を拡大した毛利氏と、「天下不武」に邁進する織田信長との全面衝突は避けられない情勢となっていた。

 これより以前、織田信長は、一度は将軍の座に就かせた足利義昭を追放し、義昭は毛利氏を頼り備後・鞆の浦(福山市)に走る。
天正元年(1573)には、一乗谷城朝倉義景、近江小谷城浅井長政を相次いで滅ぼし、天正3年の長篠の戦いにおいて、壊滅的敗北を喫し、衰退の一途を辿る武田勝頼を、天正10年、天目山に自刃させる。
天正6年には上杉謙信が急死、北国の脅威も消え、畿内において、信長の天下統一を阻む勢力として、毛利氏の支援を得て最後まで抵抗してきた石山本願寺も、天正8年、ついに降伏し、織田対毛利の直接対決は、誰の目にも明らかな状況となっていった。

 毛利征伐の信長の命を受けた中国方面担当司令官・羽柴秀吉は、播磨から山陰へと侵攻し、備前宇喜多氏の寝返りを受けて、山陽道に兵を進め、備前・備中国境が対毛利氏との決戦場の様相を呈してきた。

 対する毛利氏は、最前線となる備前・備中国境に備中七城(宮路山・冠山・高松・加茂・日幡・庭瀬・松島)を築き、天正9年11月、小早川隆景は三原城に備中七城の城主を招き、 労をねぎらい馳走の後、一振りづつの太刀を与えて忠誠を誓わせ、奮戦を促した。

 天正10年(1582)5月、秀吉率いる三万の軍勢が、庭瀬を除いた五城が落城して孤立した主城の高松城を取り囲んだ。
しかし、四面深田に囲まれた要害地形の城、加えて守将清水宗治以下城兵五千、死を賭しての防戦に容易に落ちない。毛利総軍の出陣を予想した秀吉は、急遽、安土の信長へ来援を要請したのである。

 攻めあぐんだ末、黒田官兵衛の献策をいれて秘策の“水攻め”となった。折りしも梅雨どき、築堤を12日で完成させ、足守川の堰を切った水はまたたくまに水位を増し、高松の城を、湖上に浮かぶ孤城と化してしまった。
 築堤完成2日後の21日、輝元を大将に、吉川元春・小早川隆景の毛利の援軍四万が到着。陣地を挟んだ湖水を前に、両軍とも為すすべも無く睨み合いが続き、戦況は膠着状態。一方、毛利の外交僧安国寺恵瓊を介した講和も、領土割譲と城主宗治の死を堅く主張 する秀吉との間に和議に至らず・・・・・

 6月3日夜、前日勃発した「本能寺の変」の変報が秀吉のもとに届く。秀吉は、信長の横死を厳重に秘した上で、領土割譲の条件を緩和し、城将宗治の切腹を以って城兵の命は助けるとし、急ぎ、和議を成立させた。

清水宗治は、これを受諾し、翌6月4日巳の刻(午前十時)、城より小舟で漕ぎいでて、両軍勢七万五千の兵が息を殺して見守るなか、誓願寺の曲舞を謡い舞い、辞世を遺し、城兵五千に成り代わり、見事に腹を掻き切って果てた。清水宗治、享年47歳。
秀吉は、意地と忠誠に散った古今武士の明鑑と嘆賞し、手厚く葬り、石塔を建てて冥福を祈らせた。

 が、その裏では、毛利方に悟られぬよう、すぐさま軍をまとめ、6日には馬を返してひた走り、8日姫路へと駆け戻った。「中国大返し」といわれる電光石火の離れ業であった。

 その後の秀吉は、畿内周辺の兵をまとめて京に迫り、天王山の“山崎の合戦”で、明智光秀を討ち、天下執りへの歩を進めたのであった。

毛利はなぜ追撃しなかったのか? については
こちら (三原城 さわやかに生きた智将・隆景)をご覧ください
 遺 構  《 遺構/曲輪・堀・土壇・蓮沼・水攻め築堤跡 》
かつての沼地を連想させる蓮池 (本丸西側)
かつて、城の廻りは北沼・東沼・西沼・沼田 で囲まれ、外部とは、人がすれ違えるかどうか位の一本道と、仮設の舟橋があったといわれています。 現在は、舟を浮かべる程の
水は無く、泥田沼となっています。
 
昭和57年に沼の復元がされた後、400年の時を経て、
自然に自生した「宗治蓮」と名づけられた蓮の咲く蓮池

本丸と二の丸の間のこの場所は、古来より
蓮池と呼ばれているそうです
北西から南東方向を見た本丸跡
芝生の平地と移設された首塚が残るのみです 
本丸跡には、江戸時代初期に陣屋が置かれた
民有地の畑・宅地となっている二の丸跡
道路の両側が二の丸跡、その奥左側が本丸跡で、
奥の道路右側(建物周辺)にも二の丸跡があります
二の丸と三の丸の間に建つ資料館(左端)と
秀吉の本陣が置かれた石井山

最初の着陣は龍王山(現:最上稲荷)でしたが、
築堤開始頃には石井山の舌状に突き出した
台地先端部
(画像右端)に陣を移した
 

本丸跡に建つ 清水宗治 辞世の句碑

 永禄年間末期、備中松山城主三村氏の重臣石川久式により、備前国に台頭してきた宇喜多直家に備えた境目の城として築城された。

 1575年(天正3)の備中兵乱で三村氏が滅ぶと、石川氏の旗下だった清水宗治が毛利氏方の小早川隆景に属して、高松城守将として入る。

 天正10年、羽柴秀吉による水攻めが行われ、城主宗治は、秀吉と毛利方の和睦に従って、城兵の命と引き替えに自刃する。

 その後、備前岡山城主宇喜多秀家の領地となり、重臣花房正成が入城。関が原で宇喜多氏が敗れた後、徳川家康の旗本となった花房職之が一時在城したが、まもなく別地に陣屋を構え、高松城は廃城となった。

義を重んじ、五千の城兵を救うため義に散った宗治の首塚
長く石井山に葬られていたが、明治42年本丸跡に移葬 
家中屋敷跡に残る胴塚
主君切腹の折の介錯人国府市正は亡骸を城内に埋め、
自身も首を掻き切ってその中に倒れたといいます
三の丸跡の宗治自刃跡に建つ供養の五輪塔
後方が、事の一部始終を見届けた秀吉本陣跡の石井山
宗治の後の高松城主花房氏(宇喜多家家臣)の
菩提寺である妙立寺の奥に位置しています
ごうやぶ(家臣殉死の跡)
死出のお供を願い出た二人の下僕は、宗治から、
毛利家の為一人でも多く残っていて欲しいと諭されたが、
あの世で待ちますと互いに刺し違えて果てたという
 

蛙ケ鼻築堤跡

 西に足守川が流れ、三方を沼地に囲まれた自然要害の地。毛利の援軍を得て立て篭もる五千の城兵の士気は高く、大雨続きの深田にもがきつつ近付かなければならず、城攻めの天才をもって任じる秀吉も力攻めでは落とせない
擂鉢状地形の城の位置取り、しかも梅雨時、篭城する相手の地の利・時の利を逆手にとり、秀吉は勘兵衛の献策を入れ、前代未聞の水攻めに戦術転換して逆封鎖のうえ兵糧攻めとする。

 石井山の南に位置し、舌状に突き出した台地先端部にあたる、ここ蛙ケ鼻から堤防を築くこととし、近郷から、一俵を運ぶ手間賃が“銭百文米一升の土俵”をかき集め、夜を徹しての強制労働を施し、約3キロの築堤を驚異と言える12日間で完成させた。
折からの降り続く大雨に水かさを増した足守川の堰を切ると、数日のうちに満水となり湖と化し、城は湖水に浮かぶ孤城となり、遅れて到着した毛利本隊も容易に手出しが出来ず、城兵を見殺しに出来ない毛利方は講和へと動く。

 折りしも勃発した「本能寺の変」。この変報がもたらされていない毛利軍と宗治。

急ぎ取りまとめられた城主の切腹と開城の和議に、毛利家に最後まで忠誠を尽くし、主家の安泰と、五千の命と引き替える武士の誉れを胸に、稀代の義将・清水宗治の運命の時が訪れる・・・・・

堤防の東端部に一部が残る蛙ケ鼻築堤跡
城の南東700mのこの地点より、西北西1500mの足守川上流までの約3キロに渡り築堤し、堤防内側約200haが
人造湖となる
平成10年の発掘調査後、一帯は「水攻め史跡公園」
として整備されています

発掘調査により、現在の水田の下1mのところに基底部
があり、その幅は22〜24mであることが確認された

公園内には、発掘調査により確認された
杭列・土俵の痕跡などが複製で展示されています

舟橋跡
ここは南手口で、人がようやくすれ違える程の細い道
であったが、開戦直前に、濠を掘り外濠とし、小舟を
並べて舟橋(長さ64m)の出撃路とし、退く時は舟を
撤去出来る仕組みとした

京の本能寺で信長がこの世から消えた! ・・・秀吉不屈の“中国大返し”

 信長死す!の確信を秀吉が得たのは、本能寺の変からおよそ40時間後、京の長谷川宗仁からの早馬という。
(これより少し前、明智光秀から毛利方への密使を捕らえ、隠し持っていた密書から信長の最期を知ったともいう)

 この時期、信長の武将たちは全国に散らばり、敵と対陣中で身動きがとれない。秀吉もまた高松城を囲みつつ、
毛利の大軍と睨み合っていた。
秀吉の来援要請を請けた信長は、光秀以下畿内にいた諸将へ高松への援軍命令を発し、自らも安土を出立し、本能寺に投宿した矢先、光秀の謀反により自刃。

 秀吉は主君の横死に呆然とする。しかし、ここからがこの男の面目躍如たるところなのである。
傍らの黒田官兵衛から、
 「さてさて天のご加護か。これで、もはや何事も殿の心のままぞ」
といわれて、ニヤリ笑ったという。心の片隅に芽生えた野心の大舞台を得たのであった。

 毛利相手にそ知らぬ顔で停戦交渉をやってのけ、ましてや、どう転ぶやも知れぬ宇喜多の大軍を内に抱え、上方へ行くには、宇喜多の領地を通過せねばならない。
もし、本能寺の変報を両者いずれかが知ったなら、さすがの秀吉も運が尽きていたかもしれない。
“敵を欺くには味方から”の教えよろしく、情報を厳重に秘し、平然とした装い をもって宗治の自刃と開城に立会い、
綱渡り的に毛利方の撤収を見届けるやいなや、兵を返したのであった。

 弟・子一郎秀長の軍を殿(しんがり)に、秀吉の大軍勢は、京へ京へとひた走りに走る。
高松から秀吉の中国計略の拠点とした姫路城までおよそ90キロメートル―――その長い行程を昼も夜もぶっ通しで駆けに駆けた。この「中国大返し」の速さたるや、“50キロを一日で走破”するスピードであったという。

 6月8日朝には姫路城に帰りつき、9日には軍備を整えて、明智光秀を討つべく弔い合戦に出陣した。
秀吉はこのとき、「死すとも生きるとも、この姫路に二度と戻ることはない」と言って、城中の金銀財宝・秤量をことごとく部下に分け与え出陣したという。


 高松城址に立って、暮れ行く落日を見届けていた静粛の時空、武士の誉れと忠義の心を一途に、はかなくも散っていった一人の武将の姿と、「運も実力のうち」の言葉を、天下人となった太閤の姿にダブらせて、暫しの間佇み、消えかける夕陽にハッと我にかえり、慌ててシャッターをきったのでありました。


君の名を 胸をよぎれば 風薫る
詠句 御台所(光明子)

水攻め陣営配置図
(現地案内解説板より)


岡山市高松商工会HPへ


美作さんの 「清水宗治Web」 サイト へ(非常に詳しいです)

ザ・登城TOPページへ 中国地方の城郭へ
ザ・登城TOPに戻る  中国地方の城郭へ

鳥取県島根県岡山県広島県山口県