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中国地方

備中(岡山県中部)

北政所の兄が藩祖で、豊臣一門の木下家が明治まで藩主だった陣屋

足守陣屋  (陣 屋) 【所在地】 岡山県岡山市足守

 築城時期:  1615年(元和2)  築城者:  木下利房

あしもり じんや
陣屋跡の堀割
足守藩屋形構跡は石垣が積まれた幅2mの掘割
で区画されています

 遺 構  《 現存/侍屋敷・茶亭  移築/武家屋敷表門  遺構/石垣・庭園 》

 足守陣屋は、足守川右岸の、現足守小学校の西隣にある。屋形構と呼ばれる藩主居館跡であり、この右隣(北側)には、木下利玄生家跡や大名庭園である「近水園」があり、園内には宮路山を借景にした茶亭「吟風閣」があり、往時の姿のまま残されている。また、近水園東側には、北政所(ねね)の遺品等を保存展示した「足守文庫」があります。

 また、陣屋跡手前には、陣屋を取り囲むように配置されていた、武家屋敷表門や侍屋敷があります。


 “関が原合戦”で姫路城主であった木下家定(豊臣秀吉正室・北政所の実の兄)は、北政所を守護して中立を採り、合戦後の1601年(慶長6)、徳川家康から同じ石高の2万5千石を与えられ足守に入った(池田家に播磨を与えるための姫路からの所領替えであった)。

 家定の男子には長男勝俊、二男利房、豊後日出(ひじ)藩祖となった三男延俊、豊臣秀吉の養子から小早川隆景の養子となった五男秀秋(最期は備前岡山城主)などがいるが、“関が原合戦”時において、
 勝俊は、若狭小浜6万2千石を領していたが、関が原で伏見城篭城守備から逃げ(北政所の警護に走ったとの説もあり)、戦後失領、剃髪して京に隠棲して長嘯子と号す。和歌に堪能で近世和歌の祖といわれる。
 利房は、若狭高浜(福井県高浜町)で3万石を領したが、西軍に属し、加賀前田利長の大聖寺城(西軍方)(石川県加賀市)攻略に際し、城方へ援兵を出したため、戦後除封され浪々の身となる。

 1608年(慶長13)に家定が没すると、足守領を勝俊と利房の兄弟2人で分けるようにとの家康の内示に、高台院(北政所)は、家定嫡子の勝俊にのみ与え、利房には与えない。
家康は、「勝俊が利房の所領を横領した」として、家定遺領を勝俊から没収してしまう。

 一時廃藩となったが、慶長15年、浅野長晟(浅野長政の二男・長政は北政所の妹の夫で豊臣五奉行の筆頭)が2万4千石で封ぜられた。ところが3年後、長晟は浅野宗家の兄・幸長の跡を継いで紀伊和歌山城(和歌山県和歌山市)に入り、再び足守は廃藩となり天領となる。

 木下利房は、1614年(慶長19)の“大坂冬の陣”で徳川方について戦功を挙げ(翌年の“大坂夏の陣”では、高台院のたっての望みで出陣せず、京都留守居役)、1615年(元和2)2万5千石で父の遺領足守に入り再興する。

 この勝俊の弟・利房は、足守木下家3代目となり、代々相続し、13代木下利恭(としゆき)の時、明治を迎える。

 なお、足守4代藩主木下公定(きんさだ)は、幕命により、播磨龍野(兵庫県龍野市)の脇坂安照とともに、江戸城・松の廊下での刃傷による断絶の播磨赤穂城の城請取りを行っています。

屋形構跡東面の入り口は内枡形形状になっていました
陣屋町の中核となる屋形構跡は、
藩主居館のあったところです
 
屋形構跡
維新後、各種旧学校に継承され、最後の足守小プールと
足守幼稚園の移設後、平成7年に公園として整備された
近水園(おみずえん)の吟風閣
近水園は宮路山を背景に、東外側の足守川から取水する園池を中心に作庭された池泉回遊式の大名庭園です
吟風閣は、6代木下キン定が宝永5年(1708)、幕府の命に
より普請した京都の仙洞御所の残材を利用して作った
数奇屋造りの茶亭です
 
左が侍屋敷、右は武家屋敷表門、奥が宮路山
道路右側の山と表門との間に、奥から陣屋跡(左側)・
近水園(右側)があり、その手前が足守小学校の配置です

この宮路山には、秀吉による高松城水攻めの際の備中
七城の一つ、宮路山城(毛利方)が置かれ、足守川対岸
の鍛冶山城(画像右奥・織田方秀吉軍)から攻められ、
高松城開城前に和睦開城した
侍屋敷
江戸中期の家老職の屋敷で、長屋門・御成門(藩主来邸用)・裏門・母屋・内蔵・土蔵・湯殿・書院庭園が完存する
見学無料ですが、暗いうちからの早朝登城で
中に入れませんでした 残念!
武家屋敷表門
3代木下利房が養子とした北木下家の長屋門形式の表門
足守小学校の正門として存続していたが、
昭和16年の小学校改築時、校庭南東隅へ移築

「糟糠の妻」 北政所(きたのまんどころ) 1548〜1624

 近世身分制度の確立や朝鮮出兵等、批判すべき点を多々持っているのにもかかわらず、豊臣秀吉の人気は依然として高い。その人気の高さの秘密は、一つには出自の低さ故にある。何のバックボーンもなく、百姓・足軽から身を起こし、己の才覚一つで天下を取った太閤物語は、権力者のそれではなく、むしろ庶民と共通のパイプを持った人物のサクセスストーリーに他ならないからである。
 が、その秀吉の出世も正妻ねねの内助の功あったればこそ――。「堅固な芯の強さを持ち、与えられた器の中で、聡明に生きることのできる天与の性質を併せ持つ」生き方をした理想の女性。

 子が無かったため次第に側室淀君に主導権を握られるが、秀吉はあくまで正室として立てていた。秀吉死後は家康寄りの立場をとり、家康や豊臣家臣団の諸大名からも非常に信頼されたという。落飾して高台院と号す。

■ 父・杉原助左衛門定利、母・朝日の次女として尾張国朝日村(現:清洲町)に生まれる
 (祖父{母の父、※ねねの父は入り婿}は播磨国龍野に住んでいたが、朝日村に移住)
■ 正式な名は「ね」といい、「於禰(おね)」「寧々(ねね)」とも書かれる
■ 幼少時、妹とともに織田家足軽組頭の浅野又左衛門長勝(母の妹の夫=叔母)の養女となる
■ 永禄4年(1561)8月、ねね、小者頭の木下藤吉郎と結婚する。ねね14歳、秀吉26 歳
※ 長男浅野幸長(和歌山城主)、二男浅野長晟(和歌山城主・広島城主)の父浅野長政(豊臣五奉行筆頭)は、長勝
 (ねねの養父)の養子となり、ねねの妹と結婚
※ ねねの兄・甥たちは、秀吉の立身出世とともに木下・羽柴・豊臣姓の名乗りを許され、木下姓で呼称されている
■ 天正13年(1585)、秀吉関白に叙任、ねねは北政所に任じられる。翌年、秀吉は豊臣の姓を賜る のちに、
 北政所、従1位豊臣吉子の名を賜る
■ 慶長3年(1598)、太閤秀吉、伏見城にて没す(63歳)。遺言により、淀君・秀頼が大坂城本丸に入り、北政所は
 西の丸に退く 
■ 翌年に前田利家が死に、秀吉を祀る豊国神社が竣工すると、北政所は西の丸を出て京都三本木に移り住んだ
 慶長8年、御陽成天皇より「高台院」の号を勅賜される
■ 慶長10年(1605)、北政所の寺院建立の動きを知った家康は、重臣たちに普請役職を命じ、財を惜しまず協力し、
 北政所子飼いの豊臣恩顧諸大名らも動き、伏見城から化粧御殿等を移築し、移住した。翌年、高台寺が落慶した
■ 寛永元年(1624)、高台寺にて逝去、 行年76歳。秀吉が死去してから26年、寺山内に移り住んでから19年、
 徳川家は既に家光の時代であった。

 人たらし・女たらしと評される秀吉の女狂いが始まるのは、一国一城の主となった近江長浜城主時代からと伝わる。
 ねねが夫の女性問題で嫉妬に狂っているというのを小耳に挟んだ信長は、
 「藤吉郎が不足を言うのはけしからぬ。どこを探してもそなたほどの良い女房は、あのハゲネズミ(秀吉のこと)には見つからないのだから、そなたもこれからは心を明るく持ち、奥方らしくでんと構えて、焼きもちなどせぬように」
 と、やんわり誡めた手紙をねねに書き送っている。

 秀吉が側室を本格的に抱えるようになったのは、本能寺の変のあと、天下人に上りつめてからといわれる。
関白・太閤となった秀吉には、16人の側室がいたといわれている。そのうち、解っているのは、淀殿(浅井長政の長女)、松の丸殿(京極高吉の娘)、三の丸殿(織田信長の5女)、加賀殿(前田利家の3女)、三条殿(蒲生氏郷の妹)、姫路殿(織田信包の娘)、甲斐姫(成田氏長の娘)、山名氏(山名豊国の娘)、お種殿(高田次郎右衛門の娘)などである。
これら9名の女性に共通しているのは、いずれも身分の高い家の娘たちである。自身の出自が、このような結果を招致したのであったのだろうか。

 秀吉には子種がなかったのだろうか(?)、正室ねねとの間には、ついに一人の子供もできなかった。
秀吉は跡継ぎを得るために、“小田原の陣”や朝鮮出兵の際の肥前名護屋城下など、戦場にまで側室を同伴した記録が残っている。しかし、彼女らにも子種は宿らなかった。だから、のちに、淀殿に鶴丸(3歳で早世・側室になって5年後の21歳頃)、次いで秀頼が生まれた時には、秀吉は手放しで歓喜したという。

 今日、一説には、北政所と淀殿との確執を唱える見方もあるが、夫と共に歩み戦国時代を生き抜き、当時の武家の考えと同じように、世の中を支配するのは、実力あるものだと認識していた。北政所の動きを見ると、大坂城に居る秀頼をたとえ一大名としてでも、残したいと思われていた様子がうかがわれる。いずれにせよ、秀吉亡き後の最大実力者は家康以外にはいなかった。
 関が原の後、豊臣潰しにかかった家康と、一子秀頼を守って最後の決戦を臨んだ淀殿との大坂夏の陣(1615年)において、秀吉の築いた豪華絢爛たる大坂城は灰塵に帰し、淀殿秀頼親子は難波の露と消えたのである。

 晩年を京で静かに過ごしていた北政所が、高台寺西南の夜空を赤々と染めたであろう大坂落城の紅蓮の炎の明りに、何を思いつつ望見したのであろうか・・・・・

  露と落ち 露と消えにし 我身かな 難波の事も夢のまた夢
豊臣秀吉 辞世

「町並み保存地区」あしもり
商家などの陣屋町当時の面影を色濃く残す建物が軒を並べ、情報発信と各種体験の「足守プラザ」や、江戸後期の商家を再現した「備中足守まちなみ館」などもあります
〓 足守出身の著名人 〓

 ■ 緒方洪庵(おがたこうあん) 
 足守藩士の子として、1810年(弘化10)に生まれる。
蘭学の先駆者で、種痘の開拓者として著名。大坂に開いた「適塾」の門弟からは、幕末から明治にかけて活躍した多くの人材を輩出しています。
 適塾(適々斎塾)住所:大阪市中央区北浜3丁目

 ■ 木下利玄(きのしたとしはる)
 最後の藩主木下利恭の弟利永の二男として明治19年に生まれ、利恭の死去により宗家の子爵木下家を継ぎ上京。東京帝国大学在学中に武者小路実篤らと歌集「白樺」を発行。以後白樺派作家として活躍するが、やがて“利玄調”と呼ばれる独特の歌風を完成させる

いづれの生家跡も、岡山県の指定史跡になっています


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