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ザ・登城

中国地方の城郭
備前(岡山県東部)

本文中の説明は、元禄13年(1700)の絵図・宝暦6年(1756)の絵図および、名城を歩く 岡山城(PHP研究所)をもとに説明させていただいています
◇◇ 岡山城 ご案内 ◇◇

本 丸

 現在の岡山城址公園内を蛇行する旭川とL字型に設けられている内掘内の本丸は、一二三段に構えられた次の3つの区画から成っている。ただ単に分かれているのではなく、そこに宇喜多・小早川・池田の3家による築城の歴史の跡が残されているという日本城郭史の特徴を表している極めて貴重な例である。

 ■ 天守の聳える「天守曲輪」または「本壇」と呼ばれる城の中心
 ■ 西側の表書院が雁行型に建ち並んでいた「表向」・「中の段」と呼ばれる部分
 ■ 掘と旭川に接し、帯曲輪・燧藪(ひうちやぶ)・花畑に区画された麓 の「下の段」と呼ばれる部分

本丸 下の段
主に、内掘沿いが宇喜多氏時代、旭川沿いは池田氏時代に築かれています
下の段をL形に巡る内掘西面(南から北方向)
手前の南西隅部には大手櫓門に接して三層の太鼓櫓、さらに奥部には修覆櫓・油蔵櫓・西北隅櫓が連立していた
大手口に当たる内下馬(目安)橋から内下馬門跡を見る
橋を渡って最初の一の門(高麗門)を潜って、
枡形を左(西)に折れると大型の櫓門があった
内下馬(目安)橋東側の雁行型をした南面内掘
(西から東方向を見る)
かつて石垣上には、東に向かって舂屋(つきや)櫓・
穴栗(しそう)櫓・旗櫓があった
 
内側は腰巻土塁状になっている内掘南面石塁
外側は左画像のように石垣になっています
(東から西を見る))
本丸北側の花畑からみた旭川と月見橋
付け替えた旭川は、城址北および東側をS字状に
蛇行させ、掘の役目としてある
対岸の後楽園(出城)への観光歩行者用月見橋。
かつては渡し船で往来した

月見櫓および天守北側直下の花畑には、かつては、搦手門の馬場口門内に花畑御殿(藩主休養の場・池田忠雄
築造)が置かれ、本丸内3つの御殿は渡り廊下で結ばれ、
藩主は天候に関係無く楽に自由に行き来できた
帯曲輪東面の弓櫓および鎗櫓跡近くから見た旭川と相生橋

橋の右側袂は、二の丸内郭のうちの東南の郭にあたり、
その外側に二の丸・三ノ曲輪および三ノ外曲輪が
配置された広大な城域を誇っていた

雁行する内掘南面の穴栗(しそう)櫓跡櫓台石垣(西面)
この周辺の燧藪(ひうちやぶ)には、かつて長屋門形式の中門・土蔵や金庫・舂屋(つきや:穀物の精製所)などが置かれていたが、現在は大部分がテニスコートになってます  
鉄砲狭間付き(!?)の粋な観光用トイレ
本丸中の段の月見櫓北側直下と旭川堤防との間に有り

ここは下の段帯曲輪部分であり、トイレ西側には西北隅櫓が、東側には搦手門である馬場口門と花畑隅櫓が置かれ
その内側には花畑御殿が置かれていた
本丸 中の段(表向)
 本壇よりやや低い表向は藩政庁兼藩主公邸たる御殿が大部分を占める。
宇喜多時代に一部が築かれ、小早川時代に南部分、池田時代に北部分が大幅に拡張され、現在の形状となった。
鈍角の石垣に囲まれた本壇とは対照的に、表向は直角に曲がる石垣上に多数の櫓が配置されていた。
下の段の内下馬門跡を抜け折り返すと中の段南西隅
大納戸櫓跡櫓台の高石垣が現れる
小早川秀秋が築き、池田利隆が大改修したといわれる
石垣で、櫓は三層四階、沼(亀山)城天守を秀秋が
移築したといわれる
 
南から入り左折すると石段の上に鉄門跡(東向き)がある
中の段正面の虎口で、切妻造りの櫓門で、
一階部分へは鉄板を張り付けた堅固な門であったという

門跡を過ぎると、中の段(表向)です

表向御殿跡は、平成14年から17年にかけて
環境整備事業が進められています
御殿の範囲や間取りを表示したり、小庭園の再現、
宇喜多期石垣の露出展示をするようです
 
表向御殿跡の整備された一部
画像奥の左は月見櫓、右が廊下門です(南から北を見る)

中の段西面石垣上には、大納戸櫓の他に多聞櫓・伊部櫓・数奇方櫓が、北面の東角には小納戸櫓がかつては存在し、西角には月見櫓が現存し、引っ込んで廊下門が復元されている
中の段西北隅部に建つ月見櫓(現存・南面)
三階の開け放ちの部屋で月見の宴が
催されたことに由来する名です
内部から見ると三層だが、石垣上の外観は二階(二重)であり、石塁より城内側一階が地階となり、物置となっている
東と南の最上階二面が廻縁付きの望楼となり、廻縁より一段低い明障子付の内室が宴の席であり、およそ隅櫓とは思いない風流で優雅な顔をもっている
 
下の段から見た月見櫓(外側北面)(重文指定)
南北に入母屋屋根、北面は出唐破風(内部は武者隠し)
および出格子窓(石落し付)で、一層西面が入母屋造り
(内部は階段踊り場)である

二階・三階とも天井を吊るし、畳敷きであるが、池田忠雄により創築された折には廻縁付の望楼および宴の席は無く、後年(1615〜32)に増築・改修されたものである

下の段花畑から見た小納戸櫓跡櫓台高石垣(北東面)
多聞櫓で廊下門と繋がる二層櫓であった。左端が廊下門
L型の土塀は模擬で、往時には多聞櫓で連結されていた

中の段北面の小納戸櫓跡から右方北東隅の月見櫓下の石垣は、池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、表面を平らに整えた方形の割石を配し(打込ハギ工法)、隅部は交互に振り分けた算木積みになっています 
廊下門(外側・北面)
本壇への正門である不明門が賓客訪問時のみの使用で、普段は閉じられていたことから、平素の本壇への出入りはこの門を潜り、渡り廊下を経由して入城していた
表向搦め手の城門だが、本壇・表向の両御殿をつなぐ
渡り廊下の役割も果たしていた
(明治期に破却され、昭和41年に鉄筋コンクリートで復元)
廊下門(内側・南面)
画像右端奥の土塀部分は無く、かつて廊下門東(右)端
で二手に分かれ、花畑御殿への空中渡り廊下が北下へ伸び、また、本壇御殿北面へ繋がる渡り廊下も存在していた
 
下の段花畑の花畑隅櫓跡から見上げた天守閣北西面
不等辺五角形をした天守は南北に比べて東西巾が倍以上あり、また、1階と最上階の面積が大きく異なり、南北方向から見ると塩蔵が西面に付属していることもあり、非常に
安定した、優雅な姿をしている
廊下門2階部分の
渡り廊下妻側部分(西面)

かつて、この部分にはT字型に多聞櫓があり、左方(北方向)の小納戸櫓と連結されていた。また、表向御殿と本壇御殿に連結する渡り廊下があった
(後方は天守閣付櫓の塩蔵です)
 

表向北端部の月見櫓東側にある
流し台(水槽)

石を刳り抜いて作ってあり、
底には水抜き穴もある

無造作に木の根元に置かれてはいるが、屋内外いずれかの台上に置かれていたのであろう・・・・・

表向北端部の月見櫓東側に
現存する氷室(ひむろ)とも火薬庫
とも言われる石室

本壇にある観光ボランティア案内所の熟知ガイドさんに確認したところ、藩主居所にも近く、現状では、石製の蓋・上屋等の存在確認が取れていない為、火薬庫ではなく氷室・食料貯蔵庫などの冷蔵庫のような使われ方をしたのではとの返答でした
四面の壁は漆喰塗りの痕跡が残り、
床も石畳となっている
本丸 天守曲輪(本壇)
 一二三段に縄張りされたうちの最も高い天守曲輪(本壇)は、北端に天守閣、中央部に御殿を有し、宇喜多氏時代にはほぼ全体が完成、その後多少改造されている。
北〜東〜南面石垣は鈍角に折れ曲がる角を多用していて直角の角が一つもなく、西面石垣は細かく折れ曲がった屏風折の形状をしている。
南北に細長い広い面積をもち、周長の石塁を有する割には、櫓が2基(三階櫓・干飯櫓)だけと少ない。これは豊臣秀吉の大坂城本丸によく似た形状で、秀家による岡山城築城が秀吉の意向を強く反映して行われたことが窺える。
本壇への正門である不明門(あかずのもん)
(外側{中の段側}・西面) 本壇南西角に位置する
明治の廃城後取り壊され、
昭和41年鉄筋コンクリートで復元
本壇全体の入口を固めた渡櫓門形式の大型の城門だが、賓客訪問時のみの使用で、通常は閉ざされ、北端の
天守付櫓西側からの渡り廊下を使用した
 
不明門(内側{本壇側・東面})

本丸に配置された岡山城の各城門は、必ず門内に石段・坂があり、戦時には門扉を閉じ、土砂を入れて、扉を
開けられなくする埋門(うずみもん)形式になっている

下の段の燧藪西端から見た不明門(南面)
門の左側は中の段(表向)、
櫓門式の石垣は高石垣となっている
門右側の現状は土塀になっているが、往時は、門から
本壇南面中央の三階櫓まで多聞櫓で連結されていた
 
天守閣の礎石(移設)
天守閣が元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため、その礎石を移し、元の通りに配置してある
(本壇南東角の近くにあり)

かつて、この場所には土蔵・下男部屋・舂屋などが置かれており、また、右寄りの南面土塀のところには、二層の干飯(ほしい)櫓がありました
付櫓の塩蔵と天守閣(南々西面)

塩蔵正面左の扉は、入ってすぐに2階への階段がある天守への専用入口で、塩蔵1階そのものへは西面の入口からでないと入れず、また1階と2階をつなぐ階段もなかった。他に、天守への屋内専用出入口として、かつては存在した塩蔵西面への渡り廊下から塩蔵1階に通じるものがあり、入ってすぐの階段を登り、塩蔵2階東面中ほどの扉から天守1階に入る方法であった。現在の天守南面の出入口は本来は無く、これは観光用に設けられたものです 

塩蔵西側の通路部分(東から西を見る)
画像枠外手前の塩蔵から東に降りた左への通路は中の段(表向)へ、右は土塀に突き当たり、石垣直下が下の段の花畑御殿の存在した所になります
(右奥建物は廊下門2階部分、最奥部が中の段広場です)

かつては、塩蔵西面からの渡り通路が廊下門2階の渡り廊下東面につながり、そこから空中渡り通路を通り、直下の下の段・花畑御殿へ通じ、また、本壇御殿北西端から廊下門内側石段通路の頭上をもう1本の空中渡り通路で通って中の段の表向御殿へ行き来していた
天守台塩蔵下の高石垣(北面)
元禄時代(1688〜1703)に、背後の高石垣に孕みが生じたため補強された切石整層積みの石垣、補強した最上段部の角を丸く加工しているのが特徴です
上方および奥の宇喜多氏時代の野面積みの丸い石垣
とは異なるのが解るでしょうか
 
天守台の高石垣(北面)
宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用いた野面積み式による。高さ14.9m

北側のひどく歪んだ多角形の形状が解るでしょうか?

歪んだ平面の天守閣一・二階部分(北面)
北側の天守台石垣はひどく歪んだ多角形をしている。この歪みを修正するため天守1・2階を不等辺五角形とし、大入母屋屋根を重ね、上階にいくにつれ、徐々に四角形に修正している。そのため複雑な外観となり、特徴的な構造となっている
 
天守閣・天守台石垣(東面)
昭和20年6月29日未明の岡山大空襲で、天守閣その他多くの建物が焼失したが、この天守台・移設礎石やその他多くの石垣が赤く焼けただれていて、空襲の凄さを物語っています
六十一雁木石段と要害門(上門)
本壇東面中央やや北寄りに位置し、旭川に臨む「水の手」から本壇へ直に登る勝手筋の通用口。六十一はその当初の階段数に因むもの。
下の段は江戸時代初期の前池田氏の時に整備されたが、この付近も修築された。現在の表土は埋まって高くなっている

かつては、左側登り石塁の先端部から右側の本壇石垣中位部分にかけて、2階建の本格的な櫓門が下門として存在し、厳重に防備されていた  
左画像の要害門(上門)の内側(南面)

櫓門の下門、上門の両門とも明治初期に取り壊されたが、上門だけが昭和41年に木造で再建された。ただし、再建されたのは薬医門形式だが、本来は高麗門形式だった

本壇東側の高石垣
宇喜多秀家が築いた石垣の隅角を、小早川秀秋が石垣を継ぎ足して直線部に改修した跡が観察できる。秀家は安定性の高い大形の石材をきちっと積んでいる(左手)のに対し、秀秋は丸みの強い石材を粗雑に積んでいる(右手)

青線部分を参照 
 並列に置かれた本壇(天守曲輪)と中の段(表向)の四周を廻る帯曲輪・燧藪・花畑の下の段のうち、中の段北側の下部ほぼ中央から本壇東側やや北寄りの六十一雁木上門の直下までの花畑は、他の帯曲輪・燧藪より盛土してあり、かなり高くなっていた。
 中の段北側下部の花畑隅櫓跡および馬場口門跡より南の中の段石垣直下には、外側に高い石段を伴った櫓門が、また、本壇東側の、左画像の
●印の城門跡石垣の場所には、内側に石段を設けた埋門式の櫓門が置かれて区画されていた

 城の中枢である本丸には、天守閣はじめ3つの御殿(本壇・表向・花畑)、30の櫓、6つの櫓門が、かつては存在していた。
 特筆されることは、高層櫓が多いことで、3層以上の櫓が9棟を数え、城全体では11棟にものぼった。江戸城や大坂城、名古屋城のような天下普請の城は別格として、大抵の城においては3層以上の建築は天守閣に相当するもので、ひとつの城に1棟ないし2棟程度しかないのが普通である。これほど高層櫓が多いのは、岡山城のほかに熊本城しか例がない。

本壇(天守曲輪) 天守閣
 初めて天守閣や高石垣を築いた近世城郭ができたのは安土桃山時代(1573〜1599年)。織田信長による安土城が最初で、この時代には、大坂城(豊臣氏)・松本城・三原城・広島城・伏見城・岡山城の7つの城が築かれました。その特色は、黒く塗られた板張りの外壁と最上階が正方形になっていることです。

 岡山城天守閣は古式な様式で造られ、大入母屋造りの基部に、高楼を重ねた、「望楼型」と呼ばれる様式をしているが、よく「何層何階なの?」と聞かれ、分りづらい複雑な構造をしている。
立面からその構造を見ると、2層の大入母屋基部を2つ重ねた上に2層の望楼部を乗せた形をしている。また、3つの大入母屋屋根を有することも大きな特徴で、他には熊本城に見られる珍しい構造です
外観上の特徴として、南北と東西の幅が極端に異なり、1階と最上階の面積がこれまた大きく異なる点にある。南北方向から見ると、塩蔵が西面に付属しているため、左右に大きな広がりを持ち、安定した優雅な姿をしています

 一つの建物のように見える岡山城天守閣は、西側3分の1には塩蔵と呼ばれる別の櫓が付属している。このような渡櫓なしで直接櫓が天守閣に付属するものを「複合式天守」という。同じ望楼式で層の重なり方など、岡山城に最も似ているのは、松江城天守閣である。
 普通、天守閣の内部各階はほぼ同じ四角形をしており、上階に行くにつれ、同じ逓減率で部屋が小さくなっていくものが多いが、岡山城の場合は、1階から6階まで全ての階が異なった平面をしている。
これは、天守台が不等辺五角形をしているため、1階平面が天守台の形そのままの五角形にしてあり、それを上階に行くにつれ、徐々に四角形に修正している。(4階で初めて長方形となっています)
五角形の天守台は全国唯一のもので、四角形以外の天守台も、他には安土城(八角形)のみである。


秀家はん、エエもんを こしらえなさったナーー!
黒漆塗りの板がはめ込まれた外壁。屋根には金箔を貼った鯱鉾・鬼瓦・軒瓦が葺かれ、
黒地に金が映えて、燦然と輝く威容! やはり、金箔瓦は白壁の城では映えない
いつまで観ていても、見飽きることはなかった・・・・
 
天守6階から北西方向を見る
蛇行する旭川と月見橋、対岸は後楽園
 
天守閣から見た本壇(天守曲輪)(南方向)
中央右端の建物は岡山県庁
天守閣内に再現されている城主の間
戦災焼失した天守2階には、東壁に床の間・違い棚・帳台構えが並んだ書院造り24畳の趣向を凝らした城主の部屋があった
こうした例は非常に珍しく、
他に、安土城・犬山城がある
大名駕篭で食事処に到着した若君(?)
失礼! 実は観光デモ用に乗って
ご満悦のジュニアでした。
他に、殿様・姫君衣装の無料着付け
なども行っています
天守閣内の食事処で食した昼飯
「池田家立藩400年記念特別展」の開催で、食事処が臨時に併設され、天守内で昼食なんて! とばかりに感激して処女体験・・・。もう一品あった吉備団子の小鉢は息子に横取りされてしまいましたが・・・(税込1,050円)
天守閣5階屋根部分の金箔貼り鯱鉾
お主! イイ面構えじゃのう
良いか 忠勤に励み しかと城を護るのじゃぞ!

(発掘調査で成立当初の金箔瓦が出土したので、
築城400年の平成9年に三重以上の瓦当・鬼瓦・鯱が
金箔瓦に改められた)
 

もう一度 聳える 天守の雄姿を

旭川対岸からの北面

外郭部および惣構え
 本丸をL字型に護る本丸内堀の外側の西および南側には、北西から南東方角に斜めの順に、西の丸・二の丸内曲輪(西の郭)・二の丸内曲輪(東南の郭)の3つの曲輪が配置され、その西外側には、変形逆コの字型に巡らされた内堀(堀の中部分は二の丸)の東側部分が斜め屏風折れ形状に設けられていた。

 前記3つの曲輪の西側には、変形逆コの字型内堀に囲まれた広大な二の丸が存在していた。この二の丸の西側内堀の西外側には、南北に走る中堀との間に、南北に細長い惣構えとなる三ノ曲輪があり、更に、その外側には、これも南北に走る外堀(二十日堀)との間に、北から南へ、三ノ外曲輪の内と三ノ曲輪の内が縄張りされた途方もなく広い城域であった。

■ 二の丸内曲輪(西の郭)
 かつての石山に立地し、直家時代の城の本丸に相当。 現:NHKビル周辺
■ 二の丸内曲輪(東南の郭)
 岡山城本丸の西・南に面し、藩対面所(現:林原美術間)と筆頭家老屋敷が置かれていた
■ 西の丸
 二の丸内曲輪の西端(西の郭の西側)に位置する。石山の西側部分にあたり、直家時代の二の丸に相当する場所。
 北面に北門が置かれた。 最近廃校になった内山下小学校 周辺
■ 二の丸
 内堀を隔てて二の丸内曲輪の南西に位置し広大である。家老屋敷や石高の高い重臣屋敷が置かれた。
 北面に、西の丸・西の郭への正門にあたる石山門(櫓門)が置かれたが、建物は戦災焼失し、枡形虎口石垣が残る
  (小早川氏による築造)
 北東隅に外下馬門、西面に西門(旧大手門)、南西隅近くに大手門が、また、南面には 旭川に面した東門が置かれ
 ていた。 現:日銀・岡山県庁などを含む広い一帯
■ 三ノ曲輪
 内堀と中堀に囲まれた郭で、付け替えられた西国街道(山陽道)が南北に縦断し、ほとんどが町人地であり、領国経
 済の中心的役割を担っていた。ここまでの郭が宇喜多氏時代に築造された。 現:岡山シンフォニービル近くの城下
 交差点付近
■ 三ノ曲輪の内
 二の丸および三ノ曲輪の南側に位置し、東は旭川に接し、南・西は外堀(二十日堀)が鈎型に囲む。北半分の町人
 地が宇喜多氏時代に、南半分の武家地が小早川氏時代に築かれた。
■ 三ノ外曲輪の内
 小早川氏時代に築かれ、同時に城郭の東側を流れる旭川以外の北・西・南端をぐるりと囲む外堀(二十日堀)が築か
 れた。北東部の一部に設けられた町人地以外の全てが武家地であり、5つの城門が設けられ、各街道・往来が領内
 外各地へと通じていた。
 また、北寄りの場所には、池田氏3代光政により藩学校が造られた(現:中央中学校)

西の丸
 現存する西手櫓は、池田氏初代忠継が幼少のため、姫路城主池田輝政の子の利隆が藩政代行のため岡山に在城していた、1603年(慶長8)に築造された。
 宇喜多直家時代の石山城二の丸であったこの郭が、西の丸として独立した曲輪として成立するのは、池田氏3代光政の隠居(1672年{寛文12})所となってからであり、それ以前は防備目的だった櫓を、光政が接客用に改修したものである。今も隠居所殿舎書院の池泉庭園が西手櫓南側に残っています

西手櫓(南東面)・(重文指定)
初層・二層が同一平面の重箱櫓形式で、1階は、南北に各1個の入口を設けた武器・兵糧の保管場所となり、2階は、南・西・北の3面に庇付出格子窓、東面に雨戸付の窓があり、南・西の廊下を兼ねた明り障子付武者走りより一段高く、畳敷だった書院造りの内室が、床の間・竿縁天井とともに残る
桁行5間(南北)×梁間3.5間(東西)
 
西の丸西側石垣下より見上げた西手櫓(北西面)
西面の初層は軒唐破風で飾り、1階部分両端には、上部に銃眼を施した2ケ所の石落しと2ケ所の格子窓の防禦設備が設けられています。

城下交差点近くのチサンホテル南側の骨董店右脇通路を入ると見られます(私有地なので要許可)
西の丸跡北面に残る石垣と土塀

市民会館西側の通称「石山みち」と呼ばれる
道路に面した南側に位置
 

二の丸内曲輪(東南の郭)
林原美術館の正門として移築された武家屋敷長屋門
美術館のある一帯は、かつて藩対面所が置かれたところで、美術館裏手には対面所西北隅櫓跡の櫓台高石垣
が残っています
二の丸内曲輪(西の郭)
 NHKビル隣の榊原病院駐車場には、今も、高石垣が累々と横たわっている。
ここはかつて石山と呼ばれた丘で、宇喜多直家が1573年(天正元)に築城した折の石山城本丸跡になる

出城としての後楽園
 後楽園と岡山城本丸を隔てる旭川の流れは、宇喜多秀家築城に、現在見られる半円形に蛇行する川筋に掘削して、付け替えられている。本来の旭川は、後楽園の北から東へと大きく迂回していた。

 後楽園は、兼六園(金沢市)、偕楽園(水戸市)と並んで日本三名園に数えられ、有数の観光名所として広く世間に知られていますが、江戸時代は城の拡張・修築等は幕府により禁じられていたので、大名達は城の周辺に寺や庭園を築き、防備の目的を持たせていました。

 天然の堀としての役割を持つ旭川と、対岸に設けられた、出城としての 機能を併せ持つ後楽園が、岡山城主郭部の背後を防衛し、岡山城をして、“後堅固の城”と言わしめる要因となっているが、美しい景観の中に隠された、後楽園のもう一つの別な顔は案外知られていない。

 岡山城池田氏4代城主・綱政が、1687年(貞享4)から1700年(元禄13)にかけて、英才家臣の津田永忠に命じて作庭したのが後楽園である。
唯心山を中心に、幾重にも巡る池泉や流水、大きな芝生広場、兵糧や薬草を 確保するための井田・梅林・竹林・花畑など、北側の大土塁とともに、移り変わる景観の中に周到な出城としての姿が垣間見られる。
御舟入り跡
対岸の城から舟が入っていた船着場の跡で、藩主は
舟で旭川を渡った。周囲は竹林になっています

昔は川の水位が高く、ここまで水が入っていたそうです。 
茶畑北側の大土塁と竹垣
天端幅3〜4m、高さ4〜5mの延々と続く土塁、外側に
竹垣が帯状に設けられ、臨戦時に曲輪として機能する
姿が窺え知れます。
これらの外側沿いには、本来の旭川川筋が小川(堀)
として流れています

茶畑北側から西へ続く長大な大土塁 
唯心山(築山)からみた園内最大な池である沢の池
水高の異なると池泉と遣水(やりみず)、沢流れ。園内を
縦横に流れる水は防禦を兼ねた配置である
観騎亭・観射亭近くの馬場・弓場
観騎亭・観射亭は藩主が家臣の馬術・弓術を上覧したところで、観騎亭前には2本の馬場があります

弓場近くの鶴舎では丹頂ツルが飼育され、正月には園内に放たれるとか・・・ 

沢の池と唯心山、天守(北面)を借景に作庭されています
素晴らしい景観 癒される空間
朝から8時間も歩き回った疲れも吹き飛びました・・・
藩主が後楽園を訪れた時の
居間として使用された延養亭
沢の池と唯心山、借景の操山など園内の景観が一望できる中心的建物です
 
岩国から戦後移築した毛利家の
吉川広家の隠居邸宅であった
鶴鳴館(かくめいかん)
園内最大の建物で、正門近くにあり
後楽園 南門
現代人は、城からは舟でなく、
月見橋を歩いて渡って
南門から園内に入ります
海鼠壁ライン

忘れな路きみはいずこに走馬燈
By 46(しろ)

しつこいですが、最後のオマケに、
往時の侍の誰もが、一度は夢見たであろう一国一城の主の威容を

月見橋からの旭川と天守閣北西面

旭川右岸の城郭域北および東の堤防内側全域には、新しい堤堰とともに古い石垣で築堤されていますが、新旧の判別が難しいため、ここでは画像・説明等を掲載しませんでした

ご訪問 ありがとうございました。


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