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中国地方

安芸(広島県西部)

史上名高い“厳島合戦”の舞台となった囮城

宮尾城 別称=宮ノ尾城、要害山城 (山 城) 【所在地】 広島県佐伯郡宮島町要害山

 築城時期:  1555年(天文24)  築城者:  毛利元就

みやお じょう
フェリー上から見た
宮島“厳島神社”大鳥居周辺の景観

 遺 構  《 遺構/曲輪 》
要害山山上にある東屋
南側通路から北方角を見る
(東屋の裏側一段下がったところが右画像)
 
本丸跡といわれる山上の伊勢神社(北→南)
(奥の階段上部分が左画像になります)
厳島合戦配陣図
(現地解説板より) 
要害山北側通路部分

 宮尾城は、フェリー桟橋を出た目の前に続く低い丘の要害山と呼ばれるところに築かれた囮(おとり)城です。

 この尾根からは、前面の大野瀬戸を航行する船を一望できる眺望の良いところで、 落ち着いた色の瓦が続く宮島の家並み、塔の岡、大聖院・弥山が望め、急峻な山裾と海岸の間の狭い地域に形成された町の様子が手に取るように解かるところです。


〓〓 厳島合戦 〓〓
毛利元就×陶晴賢   必勝を期した背水の陣が五倍の大軍を撃破!

 1554年(天文23)、毛利元就は陶晴賢(すえ はるかた)との対決を内外に闡明(せんめい)した。これより以前、晴賢は主筋の大内家を乗っ取り、当主・義隆を自害させており、もと大内氏の武将だった元就には大義名分があった。

 陣頭に立って出陣した元就は、桜尾城(広島県廿日市市)を占領し、海を渡って厳島を占拠した。
この後、元就は押し寄せてきた陶軍先鋒を折敷畑(大野町)で撃破したが、 戦力的にはるかに優勢な陶軍に対して、平地での戦いを不利と見て、厳島に戦場を求め、翌年5月、島の宮尾に城を築いた。陶軍本隊を厳島におびき寄せるための城である。

 策謀家元就は一計を案じ、この囮城の守将に先日まで敵対していた武将を任命し、また、重臣・桂元澄に内通偽装工作をさせたうえ、宮尾城を築いたのは一生の不覚だったなどどいう偽りの情報を流させた。
 この間、元就は決戦を前に、尼子氏の新宮党を、謀略をもって内紛を誘い滅ぼし、後顧の憂いを除いて陶軍の渡海を待った。だがせっかく渡海させても、晴賢以下が海上へ逃れては何にもならない。そこで元就は、かねてから誼を通じた三島村上水軍に来援を要請した。

 1555年(天文24)九月晦日の夜、元就と毛利軍三千有余は、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、包ケ浦に上陸、翌十月一日早暁、山を越え博打尾から、塔の岡にある陶軍本陣めがけて一気に駆け下りた。
 これに加え大鳥居側の海から小早川隆景(元就の3男)の水軍と宮尾の城兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、2万からなる陶軍の狼狽はその極みに達し、われ先に海上へ逃れかけたが、そこには前夜のうちに配置が完了していた村上水軍の部隊が手ぐすねひいて待ちかまえていた。
 不意をつかれ、退路を絶たれた陶軍は壊滅され、晴賢はわずかな兵とともに島西部へ敗走するが、なすすべもなく大江浦の山中で自刃した。
 これが史上名高い、“戦国三大奇襲戦の一つ”「厳島合戦」である。

 この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に努め、中国地方統一への大きな弾みとなったのである。

五重塔・千畳閣のある辺りは陶晴賢軍の陣所
が設けられたところで、塔の岡と呼ばれている

(画像は宮尾城跡より見た南東方角)  
厳島合戦最大の激戦地であった滝町通り
大聖院に向うまっすぐな通りで、
神官・社僧たちの諸寺の多いところです
 宮島と言えば、“日本三景の一つ”“世界遺産指定”でもあり、2航路・所要10分のフェリーは、平日にも関わらず満杯で、桟橋を出た途端、鹿の群れがお出迎え。行列をなして厳島神社へまっすぐ進む観光客を尻目に、3度目のミドモは、有の浦の浜に面する加福食堂右脇の石段を進み、一目散に宮尾城址へ・・・

一般の観光コースを離れて、イラストマップ片手に、“厳島合戦”の世界を散策。その後は、紅葉饅頭を頬張りながらの路地裏探索。

 何時間たっただろうか、日も暮れはじめ、塒に戻った鹿や人気の無くなった有の浦の浜辺のベンチに座り、残照の波間に旗めいたであろう、小早川隆景麾下の毛利水軍に想いを馳せ、暫く海上を見つめ続けたサムライworld・・・。
 至福の実り多い時空でした。

路地裏探索 「町屋通り」 残照に映える大鳥居


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