| 中国地方 |
| 安芸(広島県西部) |
福島正則改易の遠因ともなった広島城の支城
| 築城時期: 1603年(慶長8) | 築城者: 福島正則 |
天守台礎石
ここからの瀬戸内の海も最高です コンクリート打ちされていますが礎石は15個確認できました |
| 遺 構 《 遺構/曲輪・天守台・石垣・堀切 》 | |
天守台上から見た本丸跡 (東南方向)
北西角に付櫓付きの天守台があり、標高は88m |
本丸虎口
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本丸石垣 (北西面) |
二の丸跡
能舞台らしき建物があります |
三の丸から二の丸への通路石段
この通路北側(右側)に、下から順に有の丸・三の丸・ 二の丸・本丸の郭群が段状に配置されています |
三の丸跡
縦20間、横16間ほどの広さ |
有の丸〜三の丸への北側(搦手?)虎口 |
有の丸跡
有の丸と松の丸の間には、梨の丸があります ここにはトイレがあり、通路(画像手前)の反対側に 鐘の丸跡があります |
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亀居城は、背後(北西側)に急峻な山、前面(南東側)に瀬戸内海を望む山の上に築かれている。現在は、城址前方の低地部を国道2号線が走り、背後直下には山陽道が横切っており、大竹ICからは車で3分の距離にある。 慶長期に築かれた近世城郭なだけに、支城ではあるが、復元された天守台の高石垣を始め、各郭の虎口などの強固に防備された石垣群が見事です。 縄張りは、山の最高所に本丸を置き、尾根に沿って北に二の丸・三の丸・有の丸・梨の丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸と段下がりに連なり、本丸南直下に詰の丸を設け、山腹から山麓に鐘の丸・妙現丸を配置し、各郭の要所を石垣で固めた堅固な造りとなっています。 城址は亀居公園として整備され、ソメイ吉野桜が約1、000本植えられているそうです。また、大竹市出身の作詞家石本美由紀氏を称え、「悲しい酒」や「憧れのハワイ航路」など7つの歌碑を結んだ遊歩道が設置され、海と桜とを横目に、懐かしい名曲を口ずさみながらの登城はロマン溢れるものでした。
正則は、関が原の戦後処理で対毛利外交を担当し、毛利領に隣接するため、領国に6支城(三原・三次・神辺・鞆・東城・亀居)を構えることとし、毛利領東端を領有することになった吉川広家が周防岩国城の築城を開始(慶長6
年より)したこともあり、領域西端のここ小方の地に、1603年(慶長8)から
5年の歳月を掛けて完成させ、甥の福島正之(伯耆)を城代とした。
しかし、亀居城は完成から僅か3年後の1611年(慶長16)、幕府の意向により破却となった。元和の一国一城令(1615)が出される4年も前のことでした。
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梨の丸から一段下がった松の丸への通路 |
更に、松の丸から名古屋丸へ下がる通路 |
名古屋丸跡
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名古屋丸虎口石段 |
名古屋丸の下の捨の丸跡 |
こちらは、本丸南側直下に位置する詰の丸跡 ここの東屋からの瀬戸内海の眺望 もたいへん良い |
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戦に強く、酒豪だった 福島正則
■ 1561年(永禄4)、尾張国海東郡二ツ寺村(現・海部郡美和町)に生まれた。幼名は市松、父は市兵衛 正信、母は秀吉の叔母(秀吉とは従兄弟)とも、正則が養子であったという説もあり真偽は不明 ■ 12歳の頃、近江横山城主であった羽柴秀吉に仕え、初陣は、1578年(天正6)の播磨三木城攻めで あった ■ 1583年(天正11)の柴田勝家との“賎ケ岳の戦い”では、「七本槍」の筆頭として近江河内5千石を得 る ■ のちに伊予今治11万石、1590年(天正18)の“小田原の役”では伊豆韮山城攻めでは先鋒を務めて 攻略 ■ “文禄の役”(朝鮮侵攻)では、渡海して戦功を上げたが、主な任務は伊予水軍を配下にしての海上兵 站輸送であった その後、尾張清洲24万石の領主となる ■ 秀吉が没する(慶長3)と、加藤清正などの豊臣恩顧の武断派大名とともに、文治派石田三成との確執は 激しくなり、徳川家康の養女を養嗣子正之の室として迎えるなど徳川家と接近し、1600年(慶長5)の “関が原の戦い”では左翼先陣として西軍宇喜多秀家隊と激闘を演じるなど、東軍勝利のキーポイント的 働きをなす ■ 関が原の戦功により、安芸・備後2ケ国の太守となるが、戦後225万石から65万石となった豊臣秀頼 への忠誠を誓っていたので徳川幕府から睨まれることも度々であった ■ 徳川家康が豊臣家潰しにかかった1614年(慶長19)の“大坂冬の陣”では幕府に警戒され、江戸留守 居役を命じられ出陣を許されなかった ■ 1619年(元和5)、広島城修築を咎められ領地を没収され、越後魚沼・信濃川中島4万5千石に領地分 散されて配流。翌年、嫡子忠勝死去に伴い2万5千石を幕府に返上 □ 1624年(寛永元)7月13日、信濃高野井村(現・長野県上高井郡高山村)にて死す(享年64歳)。 その遺体を幕府の検死到着前に火葬したこと(自刃説あり)を咎められ、残った領地も没収され、庶子の 正利へは僅かにに3千石が与えられたに過ぎなかった。
福島正則は、秀吉麾下筆頭の猛将であり、直情家かつ酒好きで失敗も多かったようだが、佐々成政の肥後改易後の一揆平定の命を受けて、その後始末や検地を行なったり武辺だけの人物ではなかったことが窺え知れます。
どうも、家康公に上手く利用された感が否めない正則ですが、数多い彼のエピソードの中から一つ紹介いたします。
◇◇ 監禁した近習 ◇◇
ある近習が正則の怒りに触れて城内の牢に封じ込められ、家中の者達に食事を与えてはならぬと厳命を下した。 数日間がたち、さぞ飢えに苦しんでいるだろうと、正則がその近習の様子を見に行ったところ、全く衰弱した様子が見られない。 「だれぞ、わしの命を守らず、飯を与えたものがおるのか」と正則は大きな声で怒鳴った。 すると、一人の茶坊主が正則の前に進み出てひれ伏し、 話を聞き終わるやいなや、正則は涙を流しながら感動し、「すぐさま監禁した近習を解き放し、この坊主に手厚く褒美を取らせよ」と家臣に申し付け、静かに立ち去ったという。
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(注1) 戦場を駈ける首取り武将 可児才蔵(かに さいぞう)
才蔵は愛宕権現信仰が篤く、他家にもよく知られていた豪傑で、宝蔵院十文字槍をよく遣った。 関が原当日の才蔵の戦い振りは苛烈を極めた。福島正則の隊に陣借りして臨み、20の首級を得た。 家康の首実験には、そのうち3ツを持参した。「残りの首には笹の葉をかませておきました。お確かめください」 調べてみるとはたして才蔵の言う通りであり、この日の東軍最高の数であった。 家康はこの手柄をおおいに激賞して、「笹才蔵」の名と兜を1つ与えたという。 浪人となっていた才蔵は、福島家に500石で召抱えられ、待望の仕官が叶ったが、主君正則改易の6年前、自分の予言通りの縁日の日に死を迎えたと伝えられる。 (1554〜1613年 名は吉長、尾張羽栗郡生まれ)
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