| 近畿地方 |
| 丹後(京都府北部) |
当代一流の教養人細川幽斉丹後掌握の証となる、鶴が舞うような優雅な堅城であった
丹後 田辺城 別称=舞鶴城 (平 城) 【所在地】 京都府舞鶴市南田辺
| 築城時期: 1580年(天正8) | 築城者: 細川藤孝 |
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本丸城門 2階部分は舞鶴市田辺城資料館、本来の位置とは違います 平成4年復元 |
| 遺 構 《 復元/櫓門 模擬/隅櫓 遺構/天守台・石垣・堀・庭園・曲輪 》 | |
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細川藤孝(幽斉)によって築かれた田辺城は、東に伊佐津川、西に高野川、北は湾海に臨み、南は、かつては低湿地帯であり、4方を総堀として囲まれた地に、本丸・二の丸・三の丸・外曲輪とそれぞれの堀が囲む輪郭式に縄張りされた平城であった。
田辺城は、鶴の舞うがごとき形であったため舞鶴城とも称され、現在、本丸・二の丸の一部が舞鶴公園として整備されている。
1600年(慶長5)の“関が原の役”の際、細川忠興は徳川家康に従え、関東に出陣中で、西軍(大坂方)の丹後攻めのおり、幽斉は宮津城を焼き払い、田辺城に篭城する。
関が原の戦功により幽斉・忠興親子が豊前中津(大分県中津市)396、000石へ増転封されると、丹後には、信濃飯田(長野県飯田市)より、京極高知が123,200石で入封し、宮津城が焼失していたため田辺城に入る。
1622年(元和8)、高知の遺命により嫡男高広が宮津に移り、高三(二男)を田辺に、養子の高通(近江・朽木宣綱の二男)を峯山(中郡峰山町)に入れ、丹後に3藩を並立させる。田辺藩は3万5千石。
1668年(寛文8)、京都所司代の要職を退いた牧野親成が摂津国より3万5千石で入り、田辺は譜代大名領となる。
以後、牧野氏が10代続いて明治を迎える。なお、舞鶴の地名は、明治2年に藩名が城の別称をとって舞鶴藩と改称されたことに由来しています。
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昭和15年建造 |
内部は彰古館(展示室)です |
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櫓門の大手門を入った右奥にあり 天守閣は築かれなかった |
本丸跡からみた櫓門・隅櫓 (南西面内側) |
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本丸の東側ライン石垣で、公園中央部付近です |
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東側のJR線路際 石垣上には、老木・巨木が風雪に耐えて残っています |
低い石垣ですが風格があります 左画像手前の二の丸東北角近く部分 |
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当代一流の文化人は、時を見る目を持つ一流の武将でもあった
〓〓〓 細川藤孝(ほそかわ ふじたか) 1534(天文3)〜1610(慶長15) 〓〓〓 織田信長の命を受けて丹波・丹後に侵攻した藤孝・忠興親子は、明智光秀の応援もあり、丹波・丹後を平定し、信長から丹後一国を与えられた。 藤孝は文芸に秀でた教養人であるが、戦国争乱を巧みに生き抜く武将としての顔も忘れてはならない。足利義昭の側近として名を現すが、義昭よりも信長を選び、やがて古き知り合いで嫡子忠興の舅の明智光秀よりも、羽柴秀吉を選んだ。時を見る目に優れ、かつしたたかな人物であった。
■ 三淵晴員の二男で幼名与一郎、足利幕府幕臣細川元常の養子となり足利義晴・義輝・義昭に仕えた。
関が原合戦の折、嫡男忠興は家康に従え上杉討伐に出陣していた。7月下旬、丹波福知山城主・小野木重勝らの西軍(大坂方)諸将1万5,000の大軍に攻められた幽斉は、宮津城・峯山城の支城を焼き払って居城田辺に手勢
ともかく、この寡兵は大軍の攻撃をしのいだ。篭城中、幽斉はおりにふれて歌を詠んでいたという。家臣を落ち着かせるためであろうか。また、西軍の中には、はからずも巻き込まれた者が多かったらしく、空砲を放つ連中さえ居たという。
ここに、両軍の睨み合いが続くこととなるが、朝廷は、「幽斉こそ古今和歌集の奥義を伝えるただ一人の者であり、歌道の国師である。失うことは許されない」と、9月初め、西軍陣中に勅使を遣わして、囲みを解くようにとの勅命を下したのであった。
幽斉も、自分の教養がこんなところで価値を発揮するとは思いもしなかったことだろうが、西軍の大軍を丹後にひき付けておいた結果となり、2日後の関が原本戦では、東軍(徳川方)勝利の結末を迎えるのであつた。
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(現地案内板より) |