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近畿地方

丹後(京都府北部)

細川忠興の丹後での居城、かつては天橋立の見えたお城

丹後 宮津城  (平 城) 【所在地】 京都府宮津市鶴賀

 築城時期:  1580年(天正8)  築城者:  細川藤孝

みやづ じょう
移築 城門
宮津小学校裏門として移築された太鼓門

 遺 構  《 移築/城門  遺構/石垣 》
 宮津城のあった場所は、現在の宮津駅と宮津市役所の間あたりとなり、かつては、南側は湿地帯となっていて、北は海に臨み、西に大手川が流れる地の利を巧みに利用した縄張りとなっていた。

 内堀の中に本丸と二の丸を、内堀と外堀の間に三の丸を輪郭式に配置した平城であり、城郭の規模は東西約500m〜600m・南北約300m〜350mであったといわれている。

 残念なことに城址は市街地化により埋没してしまい、丹後3藩(宮津・田辺・峯山)のうち一番の大藩であった宮津城の残る遺構は跡形もなく、現在、宮津小学校へ明治6年に移築された城門が唯一残された貴重な建築物である。 


 1578年(天正6)、織田信長の命を受けた、細川藤孝・明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城主(京都府舞鶴市)一色義通を滅ぼして丹後を平定した。
その功により、細川藤孝は丹後一国12万石の領主となった。
天正8年、藤孝は宮津城を本城として築き、1582年(天正10)の“本能寺の変”後、藤孝は丹後田辺城に隠居して、宮津城には嫡男・忠興が居城した。
1600年(慶長5)の“関が原の役”の際、細川忠興は徳川家康に従え、関東に出陣中で、西軍(大坂方)の丹後攻めのおり、藤孝は宮津城を焼き払い、田辺城に篭城する。

 “関が原の役”後、細川家が豊前中津(大分県中津市)396、000石へ増転封されると、丹後には、信濃飯田(長野県飯田市)より、京極高知が当初田辺城に入って丹後一国を領する。

 1622年(元和8)、高知の遺命により嫡男高広が宮津に、高三を田辺に、養子の高通(近江・朽木宣綱の二男)を峯山(中郡峰山町)に入れ、丹後に3藩を並立させる。宮津藩は7万8千石。高広は荒廃した宮津城を大改修して城下町を整備した。
宮津京極家は高広が隠居後、子の当主・3代高国と争い、幕府の裁決で改易となる。

 その後、天領時代を経て、永井尚征が7万3千石で入るが、次ぎの永井尚長は4代将軍家綱の法要の際、芝増上寺で志摩鳥羽藩主内藤忠勝に諍いの上、斬り殺され改易。

 次いで、武蔵岩槻より阿部正邦が9万9千石で入るが、下野宇都宮へ転封となり、交替に下野宇都宮より、奥平昌成が9万石で入り、豊前中津へ転封となる。

 信濃飯山(長野県飯山市)より青山幸秀が4万8千石で入り、幸道に継いで、「宝暦騒動」後の美濃郡上八幡へ移る。

 1758年(宝暦8)、松平(本庄)資昌が遠江浜松より7万7千石で入って、以後、本庄家の支配で7代続いて明治に至った。

 奥の巨石は、本丸大手口くろがね門の袖石垣の一つ
 手前右の窪みのある石は、大手橋橋脚の礎石
 手前左の波状石柱は、この北側波止場の船つなぎ石

新大手橋東方の国道178号沿いの病院前
(この場所は、かつての二の丸北西部に当たる)

大手川東側川岸の石垣

市役所前の大手橋南詰め周辺



(現地新旧案内図より)


日本三景の一つ
天橋立(あまのはしだて)
文殊山山上の天橋立ビューランド展望台より撮影

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