| 東海地方 |
| 伊勢(三重県) |
堀尾吉晴によって丹波亀山城と間違って天守を壊されてしまった城
伊勢 亀山城 別称=粉蝶城 (平山城) 【所在地】 三重県亀山市本丸町
| 築城時期: 1590年(天正18) | 築城者: 岡本宗憲 |
天守台上に建つ多聞櫓(現存) 多聞櫓は正保年間(1644〜47)の築造 この多聞櫓は、三重県唯一の現存城郭建築物です |
| 遺 構 《 現存/多聞櫓・家老長屋門及び土蔵 模擬/塀 遺構/曲輪・石垣・堀 》 | |
天守台の一部と、その上に建つ多聞櫓
左後方建物は亀山西小学校、右後方が亀山市役所庁舎 |
天守台石段(入口)
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亀山は宿場町であり、東海道の要衝でもあった。かって、東海道筋には番所として、江戸口門・京口門が設けられていました。
大きな天守台上には、多聞櫓が現存していますが、当初は三層の天守閣があったそうで、1632年(寛永9)、幕命を受けた堀尾吉晴が丹波亀山城(京都府亀岡市)と間違って天守を壊してしまったそうです。 現在、城址には、亀山中学校・亀山西小学校・亀山神社などの施設が設けられ、また、亀山公園の一部として利用されています。 亀山古城跡の北方にある歴史博物館には、精密で大きな亀山城と城下町の復元模型が常設展示されており、たいへん参考になりますので、先に見学されることをお薦めします。
“関が原の役”(1600年)で西軍に与した宗憲は改易され、関一政が3万石で返り咲く。
その後、天領を経て、三宅康信が三河挙母より入り、この時に天守が間違って取り壊されました。次に、三河西尾より本多俊次が入り、城の大改修が行われた。
その後、石川憲之・板倉氏・松平(大給)氏・再度、板倉氏と、城主はめまぐるしく替わるが、1744年(延享元)、石川総慶が6万石で備中松山から返り咲き、石川氏が11代約120年続いて明治を迎える。
なお、伊勢亀山城の石川家は、家康の筆頭家老の地位にありながら、秀吉の元に翻しった石川数正の家系であり、数正−康長は外様で、大久保長安事件に連座して改易となるが、数正の叔父の家成が石川家の祖となり、憲之・総慶はこの系図であり、徳川家取立て扱いで譜代大名である。
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三重櫓跡
この本丸北隅にあった三重櫓が、 間違って壊された天守の代用とされた |
天守台石垣を上から見る
野面石(自然石)を牛蒡積みした 中窪みの扇型勾配で、この南面の 高石垣は直高14.5m |
城址銘碑
後方は天守台&多聞櫓 |
天守台上よりの南西方向遠望
直下のグランドは亀山中学校 |
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家老家・長屋門&土蔵
所在地:亀山市西丸町543(亀山城南三の丸) |
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| 長屋門は亀山藩主石川家の家老職・加藤内膳家の正門で、江戸時代中期以降の創建と推測されている |
| 大久保神官邸宅門 | 心形刀流演武場 |
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| 邸宅門・演武場のいずれも、亀山城天守台と亀山神社の間に移築保存されています | |
亀山古城 別称=丹稜城 (平山城) 【所在地】 三重県亀山市若山町
遺 構
《 遺構/虎口・土塁・竪堀 》
亀山古城は亀山城の一画にある亀山神社前の児童公園の北方、侵食谷(公園池が有り)を隔てた
若山と言う丘陵地にあったとされています。
現在、この地域は亀山北公園と住宅地となっています。
| 築城時期: 1264年(文永元) | 築城者: 関 実忠 |
亀山古城遠景 亀山城三重櫓跡付近より撮影 手前は、児童公園と若山との間の侵食谷にある公園池 |
以後、関氏累代の居城であったが、元亀4年(1573)織田信長により関盛信が追放され、亀山城は神部信孝に与えられた。天正11年(1583)閏正月に羽柴秀吉の攻城に際し、城将の佐治新介はよく防戦したものの加藤清正・山内一豊。細川忠興らの猛攻によりついに落城し、関盛信の子一政が城主となった。その後、関一政が陸奥白河に移され、岡本宗憲が新たに城を築くにあたり廃城となったとされる。
現在の若山において、明確に亀山古城跡とみられる遺構は見いだせないが、近年の発掘調査において亀山城二・三之丸の下層から戦国期とみられる大規模な空堀跡が検出されており、亀山古城の位置については検討を要する。ただ、近世全般を通じては若山のこの地を「古城」と認識していた。なお「九々五集」によれば、関氏歴代のいずれかの代の時に現在の亀山城の位置に替え地して築城したという。