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東海地方

飛騨(岐阜県北部)

天正大地震により一夜にして埋没した、謎の城と城下町

帰雲城  (不 明) 【所在地】 岐阜県大野郡白川村保木脇周辺

 築城時期:  1465年(寛正6)頃  築城者:  内ヶ島為氏

かえりぐも じょう
慰霊碑のある場所から見た帰雲山大崩落地点 
庄川左岸の国道156号線に挟まれた地点から撮影

 遺 構  《 なし すべてが闇の中(土石流の下)!!! 》
 天正13年(1585)閏8月、豊臣秀吉が飛騨(岐阜県)へ派遣した金森軍は、三木自綱の本城・松倉城(高山市)を落とし、飛騨を平定した。

 このとき、白川郷の領主で帰雲城(かえりぐも じょう)の城主内ヶ島氏理(うちがしま うじまさ)は、秀吉による佐々成政征伐に対し、成政の援軍として越中(富山県)へ出陣していたが、ただちに飛騨へもどると、鍋山城(高山市)に駐屯する金森長近のもとへ赴き、帰順を願い出て許された。
 三木氏はじめ飛騨の中世領主たちがすべて滅亡したこの時点で、豊臣大名として残る可能性があった飛騨土着の領主は、唯一、この内ヶ島氏理だけであった。

 ところが、この内ヶ島氏も、許されて帰雲城に帰還したわずか3ヵ月後、大地震で滅亡してしまう!。
 天正13年11月29日夜半、東海・北陸・近畿地方など広範な地域で、強い地震(M8〜8.1)が起こり、帰雲城は、在家三百余軒、男女数百人とともに、土石流によって埋没してしまった。

 当時の様子が書かれた文献によると、

◆ 「本願寺11世法主顕如の右筆宇野主水の日記」

 大地震は十一月二十九日(旧暦)の夜に起こり、以後、十余日余震が続いた。この地震で京都三十三間堂の仏像六百体が倒れたという。
 飛騨白川では帰雲山が崩れ、庄川が堰き止められたため、内ヶ島氏の在所へ大洪水が押し寄せ、内ヶ島一族はもとより、城下の者に至るまで残らず死んでしまった。他国へ行っていた者わずかに四人だけが残り、泣く泣く在所へ帰って行った。その在所はことごとく淵になっていたという。

◆ 加賀藩前田家の書「三壺記」

 この時、飛騨国阿古白川と云う町、在家三百余軒の所なるが、地震にて高き山崩れ落ちて、男女数百人一人も残らず、人家ともに三丈ばかりの下になりて、在所の上は草木もなき荒山となりぬ。

 と、記されている。

 内ヶ島氏が、歴史にその名を現すのは、室町時代の“応仁の乱”の起きる少し前の1460年頃です。
 四代(為氏−雅氏−氏利−氏理)(三代説も有り)約120年間にわたり、西飛騨(白川郷周辺)を支配、豊富な金銀資源によって繁栄し、足利義政の「銀閣寺」造営のための献金をするほどのリッチな金満戦国大名・内ヶ島氏は、その日その時、所領安堵の祝いとして、能役者を招き、宴を催していたが・・・・・

 喜びもつかの間、突然の天正大地震によって、メルヘン溢れるネーミングの帰雲城は、内ヶ島一族、家臣、城下集落とともに、一瞬のうちに消滅してしまったのである。


 なお、帰雲城の滅亡については、真偽のほどはともかく、「内ヶ島氏の財宝が城とともに埋まっている」という、埋蔵金ならぬ“埋没金伝説”が語り継がれている。

 ともあれ、埋没金伝説を信用するものや、純粋な学問的動機によるもの、その他、さまざまに取り混ぜて、何度か帰雲城発掘の試みがなされているそうですが、財宝はおろか、城とその城下集落の片鱗を忍ばせるような遺物は、現在のところ何も発見されておらず、依然として謎に包まれたままではある・・・・・

帰雲城埋没地の案内看板
国道156号線沿いの生コン会社のところを左折 
埋没地周辺と有力視される地点(左岸)に建つ城址碑
後方が大崩落地点(右岸)
慰霊碑近く(帰雲川原)に建つ帰雲神社
平瀬のT氏と保木脇部落有志により昭和54年に建立
庄川の河原より大崩落地点を望む
左方が下流の富山県方面へ
(御母衣ダムの下流のため水量は少ない)
現在の帰雲山(庄川右岸・標高1622m)の大崩落地点をズームアップしてみました
(昔の文献・古地図によると、帰雲山または帰雲の地名は庄川左岸に記載されているものが数種あり、
右岸{現在}・左岸{昔}両方に存在することになり、謎にさらに拍車がかかる要因となっている)

約420年近く経過しているにも関わらず、こうして見てみると、もの凄い迫力で迫ってくるものがあります。
(雪崩のように斜めに滑り落ちたのではなく、ほぼ垂直に崩れ落ちているようです)

山国日本を、あちこち旅してみると、人工的に切り取られた山肌はいたるところで見受けられます。
 しかし、歴史・城郭等にさっぱり関心のない人が、通りすがりに、この山容を見たとしても、
「ある日突然、城とその城下集落は、一族もろとも、瞬時に消滅してしまい」
今も、「この周辺の何処か、土石流の下に埋没している」などと、思うはずもない・・・・・合掌

地肌を剥き出しにした帰雲山の山崩れの跡だけが、地震のすさまじさを、いまに伝えている。

◇◆ 帰雲城と内ヶ島氏の謎と真実はいかに? ◆◇

 昭和の始めまで“陸の孤島”と呼ばれたような“大豪雪地帯白川郷”の不毛の地に、複数の支城をもち、照蓮寺一向宗徒との政教融和策を図り、戦国の世を約120年にわたり支配・繁栄した内ヶ島氏と、その本城帰雲城。

 “群雄割拠の乱世”、領土拡張の血みどろな攻防のなかで落城・滅亡していった領主および一族は、数えあげていったらキリがない・・・
 そんな戦国時代真っ只中、侵略戦争ではなく、大震災により、一夜にして滅亡埋没してしまった特異な内ヶ島氏一族と帰雲城。
 すべてが土の中、歴史資料の乏しさ唯に、謎の深まる内ヶ島氏と帰雲城について少しだけ触れてみます。

 〓〓 文献などに「保木脇の城」と書かれた帰雲城は、一体、何処にあったのか? 〓〓
★ 庄川左岸説=城址碑・慰霊碑のある帰雲川原と呼ばれている一帯で、一般に一番有力視されている場所です
★ 庄川左岸のR156号の西側上部の台地説(三方崩山の一角)=「帰雲城調査会」で調査をすすめている一帯です
★ 庄川右岸の帰雲山の中腹説=現況からすると、城下町を形成する平地がないことから疑問視する向きがある説

 〓〓 内ケ島氏の出自についての推理 〓〓
☆ 信濃松代からの入封説=足利義政(8代将軍)の命により、初代為氏が、後の“真田氏本貫の地”から入り、足利
 幕府の奉公衆として仕えたという、この説が一般的ですが、現在、松代(長野県長野市)には、内ケ島氏の名に
 関連するものが出ていない。
☆ 関東から来たという新説=武蔵深谷(埼玉県深谷市)に、現在も、内ヶ島の地名があり、「武蔵七党」の“猪俣党”
 から派生した武家集団で、後に、足利幕府奉公衆に昇格したという説
☆ 採掘師軍団の移住説=ロマン溢れる異説になるかも知りませんが、金銀鉱山を探し歩く集団が、信州松代から
 金鉱脈を求めて飛騨に移動、次々と掘り当て、その産出した金を時の将軍に献上し続け、ついに、足利幕府より
 大名<の地位を得たというユニークな説

 〓〓 悲劇的最期を遂げた内ヶ島氏最後の当主「氏理」の名前の読み方 〓〓
● このサイトでは、“うじまさ”と独断的に読みましたが、書かれた本によって、その読み方のフリガナは色々です。
 「うじさと」、「うじはる」、「うじよし」、「うじまさ」などの読み方が出てきますが、貴方なら、何と読みますか?
 (歴史学というより国語学になりますが、「読み方など、どうでもイインジャないの!」というお主、埋没金のことより、
 これの方が重要なんです・・・何せ、一族もろとも山津波の下敷きとなってしまった、戦国史上、稀有な武将頭領の
 名なんですから)

 ◆◆ 果たして、埋没金は存在するのか? ◆◆
◎ 不毛の地、山間奥深い一種の空白地帯とはいえ、本願寺派の照蓮寺との共栄を図ったなかで、美濃・越前国境
 に位置する微妙な立地的立場を乗り越え、織田信長の一向一揆弾圧策にも生き残り、
 また、豊臣秀吉による飛騨平定の折、同じく、越中佐々成政との同盟関係にあった飛騨の盟主三木氏が、金森軍に
 滅ぼされたにも拘らず、領地を安堵され、帰順を許された内ヶ島氏。
 文献などによると、鉱山経営に携わり、当時、かなり潤っていたこと、足利幕府に賄賂の献上を続け、時の権力者に
 取り入り、側近近く仕えたという。また、白川郷では、現在も、砂金の採れるポイントがあちこちにあるという。

 帰雲城と内ケ島氏の劇的な滅亡については、近年、「内ケ島氏の財宝が城とともに埋まっている」という埋没金伝説
 がささやかれ、ロマンに満ちた側面が脚光を浴びています。
 果たして、内ケ島氏は大量の金を保有していたのか? 保有していたなら、それは、一体、何処に埋まっているの
 か?
 サァー、あなたは、この“埋没金ばなし”を信じますか? あなたなら、一攫千金を夢見て、帰雲城と内ケ島氏の歴史
 の謎に挑んでみますか?

参考サイト 帰雲城と内ヶ島氏の謎 さま 帰雲城と内ヶ島氏に関しての最強のサイトです
城 感 さま コンテンツ「興亡 内ヶ島一族」にて熱く語ってくれています

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登城アクセス
 車  : 東海北陸道荘川IC〜国道156号線、白川郷IC〜国道156号線
鉄 道 : JR高山本線高山駅〜バス/タクシー
駐車場 : なし


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