| 東海地方 |
| 遠江(静岡県西部) |
武田氏重臣・馬場信春築城の遠江・駿河国境の城
| 築城時期: 1569年(永禄12) | 築城者: 馬場信春(信房) |
本丸北面の 搦手口
鬱蒼とした林を下ると、旧街道を越えて搦手外郭に出る |
説明文中の寸法は、現地案内看板資料の数値を書かせていただきました
| 遺 構 《 遺構/曲輪・空堀・土塁・井戸 》 | |
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諏訪原城は、牧ノ原台地の北東に位置し、東方に大井川が流れる台地上に築かれた後堅固な山城である、
標高200m余り(比高は約150mほど)、北および東側は切り立った斜面となっているが、牧ノ原台地に面する西側から見ると、平城かと錯覚しやすい。 現在、城跡は雑木林と茶畑となっていて、比較的高低差の少ない山城なので歩きやすい。
現在も、空堀・曲輪・井戸など9割の遺構がほぼ完全な形で残されており、丸馬出しを多用した武田流築城法の典型を堪能することが出来る。
武田氏の守護神である諏訪大明神を城内に祭ったことから、それが、城名の由来となっているが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られるという。 緑一色の茶畑を歩くときは爽快感に浸れるが、鬱蒼と茂った木々の中では、写真撮影に難儀しました。
1573年(天正元)、高天神城の攻略を目指す武田勝頼は、信春に諏訪原城を改築させ、小山城・相良城・田中城などとともに遠江防衛ラインの重要拠点とした。
天正3年、“長篠・設楽ケ原の戦い”で、勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、同年、諏訪原城は、徳川家康に攻められ、2ケ月の攻防の末、家康に落城させられる。
長篠での敗北後、武田氏は凋落の一途を辿り、高天神城の落城(1581年・天正9)、甲斐新府城の放棄・勝頼の自害(天正10)と連なっていく。
“桶狭間の戦い”(1560年・永禄3)での今川義元討死後、独立・版図拡大する家康と信玄・勝頼父子との間で、繰り広げられた遠江争奪戦の一翼を担い、駿河・遠江の国境の拠点としての役割を終えた諏訪原城は、武田氏滅亡とともに廃城となった。
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城址周辺南西方角の様子
周辺一帯は丘陵と茶畑のような感じです |
城址駐車場
大きな案内解説板と仮設トイレがあります 駐車場は、城址南西に位置する大手郭南端にあたります |
2号堀(水堀)
乾曲輪にある二の丸を守る堀 長さ70m、巾14.5m |
2号堀と4号堀との間の土橋
奥は二の丸です |
5号堀(空堀)
甲州流の特徴である三段鍵堀で、底部が3段になっている 長さ40m、巾13m |
本丸
土塁が巡らされ、北・東側は急斜面になっています 本丸跡のみ発掘調査中でした |
天守台地
本丸東寄りの一段高くなった所で、往時、天守は無く、 二層の矢倉を設け物見が常駐していたという |
本丸跡から見た北東方向
中央左端に大井川が見えます |
カンカン井戸
本丸と三の丸を区切る巾の広い6号堀にあり |
水の手
70mほど下ると、この城の水源地があるそうです |
三の丸
茶畑になっていたそうですが、荒れ果てています |
壁立
壁のごとく、垂直近くに切り立った構造の堀をいう |
三日月堀(12号堀)
三の丸を防御する半月形の水堀 長さ89.7m、巾15.3m |
諏訪神社と城址碑
4号堀と三日月堀に挟まれた、大手口の丸馬出し跡です 社の瓦には、武田菱の紋が入っています |
城址案内図
文字が小さく、解りづらい画像ですみません |
| 登城アクセス | |
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車 : 東名道相良牧之原IC〜国道473号線〜町道
鉄 道 : JR東海道本線金谷駅〜徒歩25分 駐車場 : 諏訪原城の無料駐車場(15台程度)を利用 |
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