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ザ・登城

関東地方

常陸(茨城県北部)

広範囲に大規模な遺構の残る中世城郭、土塁と空堀が見事

木原城 (平山城) 【所在地】 茨城県稲敷郡美浦村大字木原

 築城時期:  応永年間(1394〜1428)説と
 永禄年間(1558〜1570)説の2説あり
 築城者:  不明

きはら じょう 詰曲輪虎口付近の空堀
左側が詰曲輪、右はニノ曲輪
小姓の身長は127cmですので、比較して、堀の深さを実感してみて下さい

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・堀・畝堀・枡形 》
三ノ曲輪跡の一角に建つ木原小学校
三の曲輪は、とにかく広大な曲輪で、この東南方角
(画像右枠外)が三ノ曲輪大手虎口にあたります
 
木原小・西側裏門近くのニノ曲輪への模擬冠木門
門手前は三ノ曲輪、門を潜ると二ノ曲輪です
ニノ曲輪と三ノ曲輪を仕切る空堀
冠木門前向って右側の空堀、
左側も同じような空堀になっています
 
ニノ曲輪虎口(冠木門)周辺の土塁
土塁左(外)側は、左画像のような
空堀が横たわっています
ニノ曲輪南面の土塁
郭内の高さ4〜5m、外側の堀底からの高さは8m前後 
ニノ曲輪跡 (南西方向)
ニノ曲輪はほとんどが畑地となっています
ニの曲輪跡 (北東方向) 
画像中央左端の二の曲輪先端部には、櫓台と思われる
(高さ4mほど、約6m方形角の大きさ)ものがありますが、
民有地のうえ、耕作されているのでパスしました
詰曲輪虎口の土橋
本来の枡形虎口が車道化により、S字状に変形してます
現在、土橋は車道になっていて詰曲輪内の駐車場まで
進入出来ます
詰曲輪虎口の空堀 (土橋右側{北東側})
土橋を挟んで、詰曲輪北東端から南西端まで空堀が通り、二ノ曲輪と仕切っています 
詰曲輪南側の土塁 (郭内)
この土塁は、詰曲輪四周を廻っています

詰曲輪東面の土塁
詰曲輪四周を廻る土塁もこの周辺が一番高くなっています
車両(車高2.2m)と比較して、
土塁の高さを実感して貰えるかな・・・
 
詰曲輪(本丸)跡
かなり広大ですが、発掘調査の結果によると、深さ2m、
幅2mの堀跡が確認され、防御の強化・施設の区割り
などのために、仕切りされた堀と考えられているようです(埋戻された散策路は灰色で色分けしてあります)

奥にみえるのは、模擬井楼矢倉風の展望台です
詰曲輪跡 南東の虎口方向を見る
この散策路の下には、発掘調査により、弥生時代から古墳時代にかけて造られた「古代 環濠の堀跡」が確認され、埋戻し保存され、アンツーカー(朱色)で色分けされてます 
詰曲輪北西先端部土塁上よりの遠景
この面の土塁は2m弱と低いですが、崖下には
同心円弧状帯郭の「きぜ郭」があり、その廻りは、
かつては湿地帯であったと思われます
詰曲輪跡展望台上よりの北方向遠望
中央右端が搦手虎口 
奥は霞ヶ浦湖面
詰曲輪展望台上よりの北西方向遠望
霞ヶ浦湖面の奥の高い山が筑波山、湖面向こう岸の
左端が土浦市街地
詰曲輪東(搦手虎口近く)の高台にある稲荷曲輪
詰曲輪土塁北東先端部の一段高い場所に位置しています
詰曲輪北側の搦手虎口を下から見る
 木原城址は、丘陵地の多いこの地方の、霞ヶ浦南岸の木原台地に築かれた中世の城跡で、舌状先端部の広大な詰曲輪跡(本丸に相当)が「城山公園」として整備され、地域の人々に親しまれています。

 台地上に、大手郭・三ノ曲輪・二ノ曲輪・詰曲輪・稲荷曲輪を設け、北方台地下の低地部に弁天郭・きぜ郭を置き、さらに、三の曲輪・大手郭の南方微高地へ“巨大外郭”的な、出丸・寺郭・物見砦を配し、大手・搦手・南の3虎口を縄張りした大規模な、かつ、壮大な中世城郭です。

 木原城は、けっしてメジャーな城ではないし、江戸開幕期には、領地没収となり、歴史からその姿を消すなど、あまり知られている城ではありませんが、各曲輪を取り巻く、高く深い土塁・堀などの大規模な遺構が良く残り、また、発掘調査により、詰曲輪から、弥生から古墳時代の集落跡・環濠堀跡などが発見確認され、さらに、背後に控える霞ヶ浦を利用した水軍の存在説もあるなど、ロマン溢れる城址としてオススメできます。

 それから、詰曲輪に設けられた、下総逆井城の井楼矢倉を巨漢化したような展望台にあがり、涼風を受けながら、霞ヶ浦湖面や筑波山を一望できる眺望は必見です。 


 木原城の築城時期については、応永年間(1394〜1428)説と永禄年間(1558〜1570)説の二つの説があり、特定する記録などはほとんど残されていませんが、現在見られる遺構の大部分は戦国時代末期のものです。

 永厳寺寺伝によると、1394(応永元)、初代木原城主と目される近藤利貞が永厳寺開山とあり、関東管領山内上杉憲定の命により土岐原氏がこの地方に下向した応永年間に築かれたのが始まりではないかとの説が有力ですが、“謎多き巨城”ではあります。

 以下に現地案内板などに書かれたものを列挙してみます。

● 1431年(永享3)、第2代城主近藤利春、城郭の一画に伽藍を建立(永厳寺寺伝) 
● 1506年(永正3)、近藤利勝木原城第3代城主となり、御殿棟上、神越村から木原村に
 改名(永厳寺寺伝)
● 「新編常陸国誌」によると、“1562年(永禄5)、江戸崎城(江戸崎町)の土岐治英が
 木原城を修築し、近藤利勝を入れてこれを守らせる”とある。
● 1574年(天正2)、小田城(つくば市)の小田氏従属の江戸崎監物の佐竹氏への寝返りに
 より、木原城落城(東戦記)
● 1583年(天正11)、佐竹義重・義宣と芦名盛重らによる再度の侵攻により落城(東戦記)
● 1590年(天正18)、豊臣秀吉による“小田原征伐”の折、北条氏に与したため、豊臣方の
 佐竹義宣に攻められ、龍ヶ崎城(龍ヶ崎市)・江戸崎城とともに降伏開城する。

 その後、江戸崎城に入った佐竹氏一族の芦名盛重の領地となるも、江戸幕府が開かれた前年の1602年(慶長7)、盛重は佐竹氏に従い、羽後角館(秋田県角館町)へ転封となる。

搦手口台地下の弁天郭の水濠跡
かつては、この周辺に船着場があり、
霞ヶ浦と連結していたようです
 
この時期、濠の水はだいぶ干上がっていました
稲荷曲輪と二の曲輪との間の空堀
右側土塁の高台上に稲荷曲輪があり、左側は二の曲輪
北東先端部にあたり、近くに櫓台と思われる高台があり
ます 堀底は手前より2mほどの段差がついています
きぜ郭跡
詰曲輪北東端から南西端までの台地下の低地に、
幅50mほどの半ドーナツ形に廻る帯郭です
きぜ郭の一部では、発掘調査中でした
現在、周辺域は住宅地になっていますが、かつての湿地帯の面影(濠または湖水水際だったかも?)は残っています
大手郭
木原小学校脇の県道を挟んだ東側の民家のところに
あたります

この先、土塁と大手虎口状の道がありましたが、
屋敷地なので撮影しませんでした
寺郭にある曹洞宗永厳寺

木原城主近藤氏の菩提寺であり、境内片隅には
近藤氏の墓石・供養塔があるという

永厳寺山門脇の残存土塁

かつてこの土塁は、寺の西面の北から南にかけての谷津沿いにあったものだが、現在は湮滅してしまい、残ったのはごく一部である


詰曲輪内
公衆トイレの標章

木質感豊かなトイレで、しかも、「軍配」の絵柄がとても気にいりました。
この木原城址のある美浦村は、霞ヶ浦南岸の気候温暖な地に位置し、JRA(日本中央競馬会)の、略称“美浦トレセン”こと、「JRA美浦トレーニングセンター」のある村として有名です。

そこで、ブレイクタイムに、
 ■ 「美浦発 何でも馬辞典」 
 ■ JRAホームページ
を紹介します。(城郭には関係無いが、戦や騎馬武者には関係ありと思いまして・・・)
興味のある方は覗いてみてください。

出丸・寺郭・物見砦 方角遠望

  この木原小学校と寺郭の間を南北に走る県道68号線の東側一帯の微高地
 に存在する
“巨大な外郭部分”とも言える出丸・寺郭・物見砦のある山林
 および画像裏側の縁部には、
二重堀・畝堀・泥田堀・枡形・土塁などの
 大規模な遺構群
が藪の中に眠り、そして、横たわっているそうです
  他にもこの地域には、街道筋を遮断・監視する目的で構築された、
「稲敷郡
 に散在する戦国土塁・堀」
が数多くあるそうです。

  あとの予定時間も迫り、見学することが出来ませんでした。これらの遺構群
 については、“現代の木原城代”とも言うべき、ひづめさんが運営する
 「美浦村お散歩団」のwebサイトに、地の利を生かして非常に詳しく紹介され
 ていますので、是非そちらをご覧下さい。



美浦村公式HPへ

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