| 関東地方 |
| 下野(栃木県) |
悲劇が繰り返された関東七名城の一つ
宇都宮城 別称=亀ヶ丘城・唐糸城 (平 城) 【所在地】 栃木県宇都宮市本丸町
| 築城時期: 1053(康平6)年 | 築城者: 藤原宗円 |
土塁上によみがえった清明台櫓と御本丸広場
城内側・東北面/平成18年復元 (再訪時画像) |
| 遺 構 《 遺構/土塁の一部 (再訪時)復元/櫓・土塀・土塁・濠 》 | |
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“関東七名城の一つ”として名を馳せた宇都宮城は、遺構が壊滅してしまい、僅かに土塁の一部が残るのみで寂しい限りです。
現在、本丸の一部が御本丸公園として整備されて市民に開放され、かつて本丸に存在した5基の櫓のうちの一つで、天守閣の代わりをしていた清明台櫓跡近くに和風の清明館が置かれ、宇都宮城に関する資料が展示されています。 (また、現在、宇都宮城址公園として復元整備事業が行われています。)
築城に関しては、諸説があり、あまりはっきりしていませんが、伝承では、平安時代中期の940年(天慶3)に“平将門の乱”をおさめた藤原秀郷(俵藤汰)が館を構えたときが始まりと伝えられていますが、推測の域を出ていません。
幾多の戦乱を潜り抜け、長く文武両道で活躍した関東屈指の名族・宇都宮氏の本拠地として栄え、近世には、将軍の「日光社参」の時の宿所として本丸に「御成御殿」が設けられていたのが特徴であり、家康の参謀・本多正純の大改造により1キロ四方もの広さを誇った宇都宮城は、幕末の“戊辰戦争”時、大鳥圭介・新撰組の土方歳三らの率いる幕府軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、城の建造物や城下が灰燼に帰してしまった。 その後、残されていた土塁や堀などの遺構も、戦後の宅地化・都市化などの近代開発の波に飲み込まれ、昭和40年頃には、本丸の一部以外は破壊され消滅してしまいました。また、御本丸公園として整備したおり、残っていた遺構までも破壊して公園化を推し進めたということで、当時の当局の姿勢に憤懣を隠し切れません。
1590年(天正18)に、小田原北条氏を滅ぼして全国統一を果たした豊臣秀吉が、その後宇都宮城に滞在し、関東・東北の大名配置を決めた「宇都宮仕置」を行う。
国綱の所領没収の後、宇都宮城は豊臣政権五奉行筆頭の浅野長政に預けられ、翌慶長3年、蒲生秀行が会津若松城より入封する。
関が原の後、会津領を失った上杉景勝の替わりに秀行が会津若松に復帰して、徳川家康の外孫・奥平家昌(父は家康娘・亀姫を室とする信昌=三河長篠城主・ 美濃加納城主)が10万石で入る。
宇都宮城は江戸と奥州を結ぶ要衝の地であったが、家康が没して日光に祀られると将軍墓参の宿泊地として、ますます重要性が増し、1619年(元和5)、家康謀臣・本多正信の子で家康の駿府大御所時代の腹心・本多正純が、15.5万石で入り、幼少の家昌嫡男忠昌が下総古河に移る。
で、下総古河から奥平忠昌が再入封して奥平氏2代、その後、松平(奥平)忠弘、本多忠平、奥平昌章(忠昌の曾孫)・昌成と続き、丹後宮津から阿部正邦が10万石で入り、更に、戸田氏3代、松平(深溝)氏2代とめまぐるしく替わり、譜代大名が城主となる。
1774年(安永3)、肥前島原(長崎県島原市)より戸田忠寛が7万8千石で返り咲き、漸く落ち着いて戸田氏7代が支配して明治を迎える。
なお、戸田氏6代忠恕の幕末の動乱期、宇都宮藩は筑波山で挙兵した天狗党事件に巻き込まれ、幕府よりその対応の悪さを糾弾されて磐城棚倉(福島県棚倉町)への領地替えの危機に直面し、さらに、“戊辰の役”での戦火消失に遭遇しています。
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御本丸公園西側の様子
堀も石垣も全て後世の作り物です |
申し訳なさそうに、二の丸跡地から工事中に出土した、本多正純が城の改築に使用した石と言われるものが 屋外陳列されています |
本丸 復元模型
清明館内に置かれています→「宇都宮城ものしり館」 へ移されました 手前中央が伊賀門(南面) |
御本丸公園に建てられた清明館入り口
かつて本丸に存在した清明台櫓から ネーミングした和風レストハウス風建物の資料館 |
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登城時、『よみがえれ! 宇都宮城』のスローガンのもと、宇都宮城址公園整備工事が行われていました。
事業は、「史実に基づく宇都宮城本丸の一部復元を柱に、中心市街地の活性化や都市防災の重要な拠点として整備します。」とのことです。 太字の部分は、本当に史実に基づくものであれば大歓迎ですが、下線部分は、いずれも重要な政策の一つに違いありませんが、過去の破壊の経緯があるだけに、どのように復元整備がなされるのか一抹の不安が残ります。
ともあれ、36億の巨費を投入し、二つの櫓(清明台・富士見)、土塁・堀・土塀が復元整備され、平成18年度末には今回の事業の完成をみます。
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清明館仮駐車場付近の様子
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城址公園整備事業の公示看板
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土塁復元工事の様子
工事用正門前(西北)から撮影 土塁上には土塀が復元されます |
清明台櫓復元工事箇所の様子(西北面)
櫓台土塁外側には幅の広い堀も復元されます |
第一期整備後の宇都宮城址公園案内図
(現地案内板より) |
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『よみがえった宇都宮城』にようやく登城して参りました。賛否両論、極端に意見の分かれるところですが、36億を費やして完成させたハイテク土塁上に建つ清明台櫓・富士見櫓や御本丸広場などを紹介します。
2007.08.31 再登城
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土塁上に建つ富士見櫓 本丸土塁の西面中央の「おほり橋」から南方を見る |
本丸濠に架かる「おほり橋」と名付けられた現代のコンクリート橋 土塁の開口部両側は、「宇都宮城ものしり館」(左側)・ 「まちあるき情報館」(右側)という名の展示施設と イレベーター室が設けられている |
御本丸西面の土塁と濠
中央手前が「おほり橋」、中央奥に見える のが富士見櫓です |
御本丸北西角の土塁上に建つ清明台
二重二階、広さ3間×3間半 清明台のある部分の土塁は、他の部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではと考えられている |
御本丸内部から見た清明台
手摺り付きの階段が設けられています |
御本丸内側から見た清明台
左端はイレベーター塔屋、南から北方向を見る |
御本丸内部より富士見櫓を見る
土塁内側に2箇所見える開口部は、土塁内部利用 の災害避難やイベント用に使用する施設です |
イレベータ塔屋と富士見櫓
イレベーターの向こう側は、「おほり橋」から まっすぐに横切る土塁開口部です 土塁上へは、「宇都宮城ものしり館」から、車椅子の 方でもエレベーターで上がる事ができます |
約3分の1の面積が整備された御本丸内部の様子
左端建物は、宇都宮の歴史ガイダンス展示や茶室、 休憩コーナーなどのある清明館です |
清明台内部より北の二荒山神社方向を望む
平安時代後期に、宇都宮大明神(二荒山神社)を守る館として築かれたのが宇都宮城の始まりと言われている |
土塁上から見た清明台(南西面)
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復元された土塀を内側から見る
総延長160m、高さ約2.6m、土壁白漆喰塗り |
土塁上から見た富士見櫓(南面)
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富士見櫓東面を見る
右奥のビルは宇都宮市役所です |
公開されている富士見櫓の内部
真新しい檜の香りが清清しかったです この日は清明台も含めて、一階部分のみ 入館出来るようになっていました |
土塁表面は、ナント、ポット植えの笹でした! 水遣りも、スプリンクラー配管方式のハイテクです |
| 宇都宮城址公園整備の第一期工事は完成公開されていますが、将来は、全国初の将軍が宿泊した御殿の実現をめざして、宇都宮城最大の特徴である「御成御殿」と、本丸への出入り口である清水門・伊賀門の復元を目指しているそうです。 | |
御本丸 縄張図
(清明館展示物を撮影・加工)→「宇都宮城ものしり館」へ移設 撮影・掲載の許可を得ています |
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策士ゆえに策におぼれ、切れすぎた家康の懐刀
本多正純(ほんだ まさずみ) 1565(永禄8)〜1637(寛永14) 後世、家康とは「君臣水魚の交わり」と評され、友達同然とまで言われた本多正信の長男として三河国に生まれた正純は、父と同様に史僚派の腹心として家康のもとで活躍する。 関が原の後、家康の側近には武功派から文治派が台頭してくる。1605年(慶長10)に秀忠が将軍に就任すると、正純は、江戸の秀忠付きの父正信と連携して、家康の駿府での大御所政治では側近の筆頭として辣腕をふるい、その権威と謀略的な性格には、藤堂高虎も恐れたという。
彼が特にその才能を発揮したのが、大坂の陣であり、発端となった『方広寺鐘銘事件』を金地院崇伝と共に画策し、冬の陣では豊臣家との和議にも交渉役として活躍している。この時、豊臣側の交渉役・常高院(淀殿の妹)に対して、 1612年(慶長17)、正信・正純親子は家康同意のもと、かつて、三河を二分した三河一向一揆後、家康のもとを出奔した正信が帰参する際に、取り成しの恩を受けた大久保忠世の子で、秀忠の信頼厚かった大久忠隣を、政敵として(豊臣家に好意的で、戦いにおいて徳川家の団結が図れないとする説もあり)失脚させる。 1616年(元和2)、家康・正信が相次いで没すると、正純は江戸の秀忠に仕えるが、幕政は酒井忠世・土井利勝・安藤重信ら秀忠の側近に委ねられていき、正純の活躍する場が減り、かつての駿府での二元政治もあって秀忠の信頼も薄らいでゆき、やがて、疎まれることとなっていく。
■ 19歳の時、家康の側近として召抱えられ、その才気から家康の寵愛を受ける
3年後の4月、将軍秀忠は日光に社参。そのおり、往路は宇都宮城に宿泊したが、復路は、予定を変更して宇都宮を通らずに江戸へ帰還してしまう。
加納殿とは、正純の替わりに宇都宮から下総古河に押し出された奥平忠昌の祖母であり、忠昌幼少とはいえ、その転封を無念に思い、さらに、加納殿の娘は、正信・正純親子に追放された大久保忠隣の嫡男・忠常の正室であったため、正純に対する恨み憎しみは積もりに積もっていた。
他に、日光社参の将軍宿泊中継地となるため、城の大改修を進めていた正純は、家康が本多家に付けた「根来足軽同心」組織に動員をかけるが、「公儀以外には従えない」と拒否され、怒った正純は勝手に彼らを殺してしまう。また、5倍近い加増を機に、無断で堺に鉄砲を作らせ密かに運び入れてしまった。正純にしてみれば、全て秀忠出向かえ、将軍警護の意味合いがあったことだろう。
同年8月、正純は、最上義俊(義光の嫡孫)の改易にともない、出羽山形に赴いたおり、突然に、老中の罷免と出羽由利郡5.5万石への移封という命を受けた。つまり、秀忠は、正純を江戸や国許から遠ざけたうえで、減封の処分を下したのである。
『日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく』
(本多正純 横手での詠句)
文官の父・正信は、石田三成同様、武功派から嫌われ、武功派から文治派への過渡期に損な役割を貫き通し、憎まれるからと加増を固辞して2.2万石の所領。
果たして、宇都宮15.5万石の大身となって3年弱での改易・・・奢りがありすぎたのか? 引き際判断の甘さなのか?
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本多上野介正純公の墓所は、横手城直下の『上野台(こうづけだい)』と呼称される“根岸の高台”の一画に、ひっそりと静かに眠っています。 元和8年(1622)年、失脚し横手に配流された正純は、寛永7年(1630)年、嫡男の正勝を先に亡くし(享年35歳)、千石の捨て扶持を宛がわれた幽閉状態に置かれ、失意のどん底のまま、その7年後の寛永14(1637)年3月10日、配所で静かに死去した。遺骸は横手市内・正平寺に葬られた。
正純公墓所には、秋田県横手市の「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」や、「よみがえれ!宇都宮城市民の会」などの諸団体により、「本多上野介正純公終焉の地」の石碑が新造され、正純公への思いを託す「記載台」も設置、配流先で詠んだ“うめもどき”の歌にちなんだ“紅白一対のうめもどき”が植樹されるなど、綺麗に整備されています。
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ひっそり静まりかえった墓所への入り口
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うめもどきに見守られ眠る正純公墓碑
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| 登城アクセス | |
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車 : 東北道宇都宮IC〜国道119号線〜市道
鉄 道 : JR東北新幹線・東北線宇都宮駅〜徒歩20分 または 東武宇都宮線 東武宇都宮駅〜徒歩15分 駐車場 : 【現状】清明館の仮無料駐車場(20台程度)を利用 |
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