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ザ・登城

関東地方

下野(栃木県)

城主出奔、室は秀吉から寵愛され、やがて喜連川公方誕生

倉ケ崎城[くらがさきじょう] 別称=大蔵ケ崎城・喜連川城 (山 城) 【所在地】 栃木県塩谷郡喜連川町喜連川
更新 合併(2005.03.28)により 栃木県さくら市喜連川 に住所変更

築城時期:  1186年(文治2) 築城者:  塩谷惟広

おおくらがさき じょう
二の丸堀
三の丸〜二の丸の間の城内最大の堀切
深さ約10m、幅約15mほどの一の堀、背山橋から撮影

倉ケ崎城
 遺 構  《 遺構/曲輪・堀切・土塁 》
 湯の香ただよう歴史のまち喜連川。倉ケ崎城址は、この町を流れる荒川と内川の合流点に挟まれた丘陵、現在、お丸山公園として整備された観光スポットに佇んでいる。

 両側が急傾斜になっている丘陵突端の要害を利用した連郭式の山城であり、西から東へ、外郭・三の丸・二の丸・本丸と配し、先端部に3段の小郭が設けられ、各曲輪の間は深い堀切で区切られている。

 東から西に構築された一の堀から四の堀までの4本の堀切のうち、、特に、一の堀(本丸と二の丸の間)と二の堀(二の丸と三の丸の間)は深く掘られている。
 一の堀は直線、二の堀はS字状、三の堀は鍵の手型とそれぞれ工夫を凝らした堀切は、この城の特徴であり、四の堀は、北から自然の沢が入り込んでいる。

 お丸山公園山頂のスカイタワ−(展望台)は、町内どこからでも見えるので目印となり、山上の無料駐車場へは、車道を車で行く方法と、市街地町立体育館近くの心字池庭園の脇からシャトルエレベーターを利用する方法があります。


 倉ケ崎城は、源義経に従って“源平合戦”で功を挙げた塩谷惟広が、源頼朝より塩谷の里を与えられ、1186年(文治2)、城を築いたのが始まりとされている。

 1590年(天正18)、豊臣秀吉による“小田原攻め”に際し、時の城主塩谷惟久は参陣する機を失い、秀吉の怒りに触れたと察知して出奔したため、惟広以来17代400年続いた喜連川塩谷氏は滅亡した。

大蔵ケ崎城址のある「お丸山公園」 遠望
スカイタワー(展望台)は町内のどこからでも見えます 
外郭に建つ町営喜連川城(城を模した温泉施設)
山頂の外郭部は駐車場となり、
他にスカイタワー・土産物店もあります
 
外郭から三の丸の間の堀切に架かる「おおくらがさきばし」
それぞれの堀の間には、必ず赤色の橋が架かっていますが、往時も木橋で繋いでいたと思われる 
三の丸西側に残る土塁
外郭から三の丸の間の 三の堀
この堀切の南側部分はかぎ型になっています 
南から北方向を見る

アスレチック広場となっている三の丸跡
本丸先端(下部)の小郭
二段構造になっている 

城址縄張図
(現地案内解説板より)



鎌倉公方から古河公方、そして喜連川公方へ・・・

喜連川公方館[きつれがわくぼうやかた] 別称=喜連川陣屋 (居館・陣屋) 【所在地】 栃木県塩谷郡喜連川町喜連川
更新 合併(2005.03.28)により 栃木県さくら市喜連川 に住所変更

築城時期:  1593年(文禄2) 築城者:  喜連川(足利)頼氏

きつれがわくぼう やかた 
模擬 大手門
喜連川役場正門(裏{内}側)
2階は展示室です

喜連川公方館
 遺 構  《 復元/庭園  模擬/門  遺構/用水堀 》
 喜連川公方館跡は、現在のお丸山公園東麓の喜連川町役場・町立体育館のあるあたり一帯に存在したが、これといった城郭遺構は残っていません。
 しかし、その生い立ち・経緯から紐解いて訪れてみると、温泉の歴史は浅い(昭和56年沸出)が、落ち着いた佇まいの残る街中を散策してみると、奥州路に息づいた足利氏の歴史浪漫に誘ってくれます。

◇◇ 喜連川公方の生い立ち ◇◇

 足利尊氏は京都に幕府を開くとともに、次男基氏に関東十カ国を与え、鎌倉を拠点として鎌倉府を開かせた。鎌倉府の長官は鎌倉公方(関東公方)と呼ばれ、関東管領上杉氏に補佐され関東の政務を主導したが、4代足利持氏は6代将軍義教と対立し、管領上杉憲実にも離反され、1439年(永享11)、持氏は自害させられて鎌倉公方家は一旦滅亡した。
 その後、関東諸将の要望により持氏の子・成氏が鎌倉公方として復活したが、関東管領職の両上杉氏の支持を失い、鎌倉を追われて古河に移り古河公方と称された。

 古河公方家は、初代足利成氏から5代義氏まで命脈を保ったが、1582年(天正10)、義氏は9歳の氏女(うじひめ)を残して没し、128年間続いた古河公方家は断絶した。

 一方、古河公方2代政氏の次男足利義明は、下総小弓城(千葉県千葉市)にあって勢威を振るい小弓公方と称された。義明は“第一次国府台合戦”において討死したが、三男国王丸と二姫は安房館山の里見氏に保護された。国王丸は成人して頼純(正しくは頼淳)と名乗り、その娘・嶋子は縁ありて喜連川塩谷氏17代惟久に嫁ぎ、美貌の城主夫人として名声が高かった。
 倉ケ崎城での記述通り、1590年(天正18)の小田原攻めに際し、城主惟久は出奔してしまうが、惟久夫人嶋子は、宇都宮に陣した秀吉を訪ね、惟久に二心ないことを弁明し許しを請うた。好色家の秀吉は美人の嶋子を寵したため喜連川3500石を嶋子の化粧料としてこれに与えた。

 また、秀吉は名門古河公方家の断絶を惜しみ、古河公方義氏の遺子・氏女に嶋子の弟・足利国朝を配し、古河公方家の再興と嶋子が化粧料を国朝に譲ることを認めた。
 国朝は秀吉の朝鮮出兵に応じ出陣の途次安芸国(広島県)において急死したため、秀吉は国朝の弟・頼氏と氏女を娶わせ襲封させた。
 頼氏は喜連川に居館を定め、足利姓をためらい喜連川氏を称したが、その後、足利将軍家の末裔として喜連川公方と尊称された。

 さらに、江戸時代に入っても、家康が源氏を称して将軍となり、徳川将軍は代々「源氏の長者」の称号を朝廷から得ていた関係から、源氏の名流を特に保護し、幕府は、喜連川氏を足利将軍家の後裔の中で、五千石ながら、唯一の大名として格式十万石・実高一万石を与え、「高家」として厚遇し、喜連川氏は15代続いて幕末まで存続した。

喜連川足利家の墓所(龍光寺境内)
14代に亘る歴代藩主、御台所、嫡子などの石塔54基があります 
御用堀
防火・灌漑・飲料水に役立てるため、10代煕氏が造らせたもの 
寒竹囲いの家
6代茂氏が、腐朽しやすく維持費のかかる板塀に
代わるものとして奨励した笹竹による生垣
 
心字の池庭園 (復元)
10代煕氏が、御用堀を開削しその水を邸内に引き込み
造った奥庭庭園
 
シャトルエレベーター
市街地の心字の池庭園脇からお丸山公園山上(倉ケ崎城址三の丸北東角部)までの170mの距離を4分で走る 

シャトルエレベーター山上駅から北東方向を見る
 喜連川町は公営温泉施設が8カ所もあり、登城と、もう一つの目玉である温泉入湯をしながらの探索でした。朝一番に「町営もとゆ温泉」、次いで「道の駅きつれがわ」のクアハウス、夕刻からは、「町営露天風呂」の3湯入浴。
 城郭踏査疲れの足腰癒しの予定でしたが、何故か疲労感が残り、藩政ではなく反省。早朝6時から夜8までの活動で消費したエネルギー充填の回転寿司では、たらふく食したのが応えて財布は更に薄く、ハンドル握り次の登城領地へ。

登城アクセス
 車  : 東北道矢板IC〜国道293号線/早乙女〜県道114号線
鉄 道 : JR東北本線氏家駅〜バス/喜連川温泉行き
駐車場 : 山上の無料駐車場(100台程度)を利用


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