| 関東地方 |
| 上野(群馬県) |
室町幕府の足利氏本領の地、館跡はやがて鑁阿寺として変遷
土塁と水堀 幅4m前後の堀、及び土塁が四周を囲んでいます |
| 遺 構 《 現存/門 遺構/土塁・堀 》 ※ 他に、鑁阿寺の諸塔頭あり | |
西門 (現存)
東西南北すべてに門がありますが、この西門と全く 同じものが、向こう側の東門にもあります 本瓦葺き・切妻造りの四脚門 (1310年代{正和年間}の伽藍配置図に記載あり) |
楼門と反橋 (現存)
南にあるこの楼門は山門(仁王門ともいう)で、1196年 (建久7)足利義兼による創建で、兵火にあい、1564年 (永禄7)に足利幕府13代将軍足利義輝により再建 上屋付きの反橋(そりばし)は太鼓門ともいい、江戸 時代安政年間の再修です |
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栃木県足利市は、室町幕府の将軍家足利氏の名字(本領)の地であり、市街地の中にある鑁阿寺の境内は、初期の足利氏の居館跡です。 足利氏は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝と同じく、清和源氏・八幡太郎(源)義家の子孫で、義家の3男義国が妻の里である下野・足利荘へ下り、その子義康が足利氏を名乗って足利氏の始祖となる。ちなみに、新田氏(足利荘に隣接する上野・新田荘)の始祖の義重も義国の子で、足利義康とは兄弟です。 足利氏始祖・義康の子の足利義兼の妻・時子は北条時政の娘である。義兼は源頼朝の伊豆(静岡県)での平家打倒の挙兵に、いち早く馳せ参じて功を挙げ、また、八幡太郎義家の曾孫という血統のよさと相まって、以後、足利氏は鎌倉幕府の最有力な御家人として発展した。 その初期の館が、現在の鑁阿寺の地であり、、この館を誰が築いたかについては諸説{義国説・義国と義康説}あるが、義兼とする説が有力らしい。
足利氏館と鑁阿寺は 『庇を貸して母家を取られた』 関係
この足利氏の館に、鎌倉時代初頭の1196年(建久7)、義兼が持仏堂を建立、これがのちに鑁阿寺という寺院へと発展する。
現在の形は単郭ですが、鑁阿寺に残された絵図などにによると、往時は一辺が500m前後の四角形をなす、広大な複郭の館であったと推定されているそうです。
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経堂
足利義兼が妻の供養の為創建し、現在残る建物は、1407年(応永14)関東管領足利満兼により再建されたもの(重文指定) |
鑁阿寺大御堂
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御霊屋(赤御堂ともいう)
本殿に源氏の祖を祀る鎌倉時代の創建で、徳川11代将軍家成斉の寄進による再建 本殿裏に、開基・足利義兼の父(義康)・祖父(義国)の墓がある |
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(清和源氏)源姓足利氏 略系図
↓ 清和天皇(第56代) ↓ 貞純親王(第6皇子・清和源氏の祖) ↓ 経基 ↓ 満仲 ↓ 頼信(坂東進出の足掛り構築) ↓ 頼義 ↓ (八幡太郎)義家 (奥羽戦乱を鎮定) ↓義国(新田・足利両家の祖) |―義重(新田氏) └―義康(足利氏) ┗━義兼(義家の曾孫・鑁阿寺開基) 義兼の7世孫が室町幕府を開いた足利尊氏(高氏)であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝は義家の嫡流です |
境内地には、掲載の建物の他に、鐘楼・多宝塔・不動堂・東門・北門(薬医門形式)などの重文・県指定の建物が、整然と並び、お寺マニアの方にもオススメです。
山門である南側の楼門の両側には、運慶作の仁王尊像が守護しています。 大御堂近くには、樹齢約550年といわれる 「大銀杏」 の樹がありますが、江戸時代には既に大木となり、樹下において、大日如来の本堂を前にして青年男女の見合いが行われ、縁結びの御神木と崇められていたという。
館の遺構は、土塁と水堀くらいですが、神社特有のピンとはりつめた静粛の中、中世初頭の坂東武士の居館の姿を彷彿とさせ、楽しませて貰いました。
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史跡 足利学校 (国史跡)学生や一般の人の通用門として 使用されていた裏門 |
鑁阿寺の東南隣には、中世の大学・日本最古の学校と言われる史跡 「足利学校」があります。 こちらも、足利義兼の創建と伝えられています
日没タイムアウトとなり、入場はできませんでしたが、パンフレット等によると、天文年間(1550年頃)には、『学徒三千』といわれたほどで、平成2年復元整備され、江戸中期の姿に蘇りました。
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