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ザ・登城

関東地方

上野(群馬県)

徳川四天王の一雄・榊原康政、5代将軍・徳川綱吉も在城

館林城 別称=尾曳城  (平 城) 【所在地】 群馬県館林市城町甲23−1他

 築城時期:  1530年(享禄3)?  築城者:  赤井照光?

たてばやし じょう
土橋門 (復元)
正門である「千貫門」とともに、城中心部の
三の丸への通用門として利用された

昭和57年復元

 遺 構  《 復元/門・井戸・石組み水路  遺構/曲輪・土塁 》
土橋門周辺(三の丸)の土塁   土橋門内側の土塁
(カギ型の蔀{しとみ}土居)&塀

 館林城は「城沼」を自然の要害とした平城である。築城に際して、狐が尾を曳いて縄張りを教えてくれたという伝承があり、別名を「尾曳城」と言い、城内に尾曳神社が祀られています。

 その縄張りは、城沼を城の東側の外掘りとし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を配し、これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の台地に城下町を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいたという。

 現在、三の丸には、土橋門・井戸館・塀が復元され、城内を見通すことが出来ないようにカギ型にした「蔀土居」や他の土塁が現存しています。

 二の丸は現在市役所が建っているところです。本丸にも現存土塁の一部が残り、石組み水路が移設復元されています。


 館林城の始まりには諸説があり、年代に関しては不明な点がありますが、赤井照光の「狐の尾曳伝説」と相まって、築城は赤井照光または赤井氏の誰かが構築したものと思われている。

 1562年(永禄5)、上杉謙信の関東出陣により、城主赤井氏は降伏開城し、足利城の足利長尾氏が城代を務め、厩橋城(群馬県前橋市)とともに謙信の関東駐屯地的役割を果たした。
 足利長尾氏の長尾景長は1569年(永禄12)に没し、太田金山城の由良氏より養子に入った長尾顕長は、謙信の死後、甲斐武田氏・小田原北条氏にたびたび攻められる。

 1584年(天正12)、長尾顕長と兄の太田金山城主由良国繁は北条氏の謀略により相模小田原城に幽閉され、北条氏の攻撃を受けて開城し、城は北条氏の支配となる。

 1590年(天正18)の“小田原の役”では、長尾顕長は小田原に篭城したが和議開城し、徳川家康の関東入封に伴って、「徳川四天王」の一雄・榊原康政が10万石で入る。

 榊原氏は、康勝・忠次と3代続き、その後、松平(大給)氏・徳川氏・幕府領・松平(越智)氏・太田氏・松平(越智)氏・井上氏と、めまぐるしく城主は替わる。

 最後の城主は秋元氏で2代続いて明治を迎える。なお、5代将軍となった徳川綱吉(3代将軍家光の5男・4代将軍家綱の弟)の藩主期間は、1661年(寛文元)〜1680年(延宝8)で、将軍就任後は子の徳松に譲るが3年で早世してしまい、城は一時幕府領となった。

本丸跡より見た二の丸方向
後方建物は館林市役所

一部現存の本丸南側土塁
市立文化会館入り口にある
城址銘碑

文化会館北側入り口にある
千貫門跡 石碑

石組溝状遺構 (移設復元)
現在地(本丸跡の向井千秋記念市立
こども科学館)の20m程北西にあった

長さ約18m・幅約40cmの
石組・石敷き水路です

八幡曲輪にある八幡宮

 在りし日の姿が一番偲べる城沼の袂のベンチに座り、頬に心地よい風を受け、つつじが岡公園観光の往来を遠く望みつつ、沈み行く夕陽に照らされてキラキラ輝く水辺を眺めていました・・・・・

 余談ですが、「生類憐れみの令」により民衆を苦しめたことで有名な5代将軍綱吉の館林藩主時の在城は、日光での家康50回忌法要の帰途、4泊しただけとか・・・・・

この城最大の自然要害である城沼
(城域東端の舌状台地部)

現在は、隣接して「県立つつじが岡公園」があります

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