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ザ・登城

関東地方

上野(群馬県)

長野氏の臣・剣聖上泉信綱は奮戦奮闘するも落城、主は滅亡

箕輪城  (平山城) 【所在地】 群馬県群馬郡箕郷町西明屋字城山
更新 合併(2006.01.23)により 群馬県高崎市箕郷町西明屋字城山 に住所変更 

 築城時期:  1512年(永正9)又は1526年(大永6)  築城者:  長野業尚又は長野憲業

みのわ じょう
木俣〜郭馬出しの間の堀切
大堀切は城内を南北に分断し、
“一城別郭式”の城郭構造となっています

左側が郭馬出し、右は木俣
郭馬出し周囲の堀切は大堀切に繋がっています

 遺 構  《 遺構/曲輪・堀切・土塁・石垣・土橋・虎口・井戸・埋門跡 》
二の丸へ通じる搦手口
この搦手口のある東側から北へかけての比高は意外
に低い(20m未満)ですが、往時、この辺一帯は、南の
榛名沼に続く低湿地帯であったろうと想像できます

長野氏時代には、こちらが大手口であり、
この北側の搦手口は、井伊直政による大修築時に、
西側から変更されたものです
左→二の丸、右→新曲輪方面へ
 

二の丸への搦手口
枡形虎口と土塁

 西上野の中央部に聳える榛名山の山裾が南に向って緩やかに延びたところ、その尾根の先端部(溶岩台地上のコブのような小丘陵)を利用して箕輪城は築かれています。
西は、榛名白川の急流に望む約20mの断崖、南には、かって榛名沼が存在し、なだらかな北東部は、現在、宅地・畑地となっているが、往時には、南の榛名沼に続く低湿地帯が囲み、水濠を配し、天然の要害となっていた。
城域は標高274mの地に、東西約500m・南北に約1100mあり、面積47haに及ぶ広大な城です。

長野氏時代は、御前郭・本丸・二の丸と連郭式に繋がったあたりを城砦化したものであったとみられ、武田氏や北条氏による改修を経て、井伊直政による大改築により、画像で紹介した曲輪の他にも、蔵屋敷・通仲曲輪・玉木山(玉木曲輪)・水の手曲輪や、いくつもの帯曲輪などの、今に見られる遺構を有する大城郭となった。
低い尾根上を東北から西南の方向に各曲輪が配置され、各曲輪の間が縦横に深い堀切で仕切られ、特に、二の丸・三の丸・鍛冶曲輪南側の大堀切は、幅といい、深さといい圧巻で、城内を南北に分断し、唯一、土橋のみで連結されるこの“縄張りの妙”は特筆され、最大の見所でもあります。

 車で行く場合は、二の丸に駐車スペースがあるので東側の搦手口(長野氏時代の大手口)から乗り入れることができます。
大規模な中世城郭ですが着々と整備が進められ、案内板もしっかり備わっているので解りやすい。だが、堀底を歩く場合には、迷子になりやすいので、縄張図などを事前に用意して出かけることをオススメします。
「一城別郭の城」で、また、築城時と廃城時で大手と搦手が逆になった珍しい城でもありますが、とにかく、群馬県内一番の城ではないでしょうか?


 箕輪城は、上州・長野郷出自の豪族・長野業尚により、明応年間(1500年頃)又は1512年(永正9)に築かれたとする説と、長野憲業が1526年(大永6)に築いたとする説がある。
 長野氏は関東管領・山内上杉氏に古くから仕える重臣で、長野業政は、上杉憲政の重臣として、周囲の武将と血縁関係を結び、また、その優れた統率力で西上野の旗頭となり、北条氏・武田氏の脅威に晒される中、山内上杉家の再興を願って最期まで関東管領を支えた。

 1546年(天文15)、山内上杉憲政らの川越城を包囲した連合軍は、城に篭る北条綱成や北条氏綱の奇襲(「河越夜戦」)により大敗を喫し、1552年(天文21) には、本城である上野平井城を脱出し、越後春日山城の長尾影虎(後の上杉謙信)を頼り身を寄せた。
旧主を失い、甲斐・武田信玄の攻撃にも晒される様になった西上野の豪族は動揺したが、長野業政は旧主上杉氏に忠誠を誓え、関東管領職を継いだ上杉謙信の関東勢の総大将となった。
1554年(天文23)、甲相駿三国同盟が成立し、関東進出を目論んで攻撃を仕掛けていた武田信玄は、これを期に、毎年のように西上野侵攻を重ねた。しかし、矢面に立たされた業政の巧みな戦術と、堅固な箕輪城とその支城網を駆使して、その度信玄は錯乱・撃退された。
知勇の誉れ高い名将・長野業政も老いと病には勝てず、1561年(永禄4)ここ箕輪城で息を引き取ります。

 跡を継いだ若き城主長野業盛は、和田城・安中城・松井田城・倉賀野城などの支城が次々に落城し孤立。永禄9年、信玄の2万の大軍で攻められ鷹留城も陥落し、同年9月、業盛も城門から討って出るなど奮戦するが、衆寡敵せず、業盛は自刃、長野氏は滅亡し、箕輪城は落城した。

 信玄は内藤昌豊を城代に置き、西上州の拠点とした。武田氏滅亡後には、織田信長の関東管領(厩橋城に入った)滝川一益の治下となり、そして“本能寺の変”後の混乱に乗じて北条氏邦が一時的に占拠。1590年(天正18)の“小田原の役”に際しては、前田利家・上杉景勝などの北国勢の前に、戦わずして降伏開城している。

 北条氏滅亡後、関東に入国した徳川家康は、重臣の井伊直政を12万石にて箕輪城主とした。直政は、武田・北条氏により改修された城の大改築を行い、城下町を整備した。
直政は在城8年にして、1598年(慶長3)、和田城(高崎城)に移り、箕輪城は廃城となった。

梅林になっている二の丸
持久防御のための本丸に対し、この二の丸は、出撃の拠点であり、東は搦手口に、西は白川口・大手方面、南は、木俣方面へと4方へ出撃できる

大城郭の場合、こうした意図的に敵を寄せ付けて叩く攻撃拠点を設ける場合があります
縦横各80m程の広さの郭です
二の丸南方の郭馬出し
外部から見えないように周りに土手を儲け、囲いの中に兵を結集し、西側から一挙に打って出るところ

東西50m・南北30m程の広さで、
このような大型の馬出しを
郭馬出しと言います

木俣

通路が、二俣・三俣のように
5つの方向に分かれるものを言い、
ここがその形状をした郭である

二の丸〜郭馬出しの間の大堀切と土橋
この両側の大堀切によって、城内が南北2つに分断され、
唯一、中央にある土橋一つで連結されている
このように、一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる
仕組みのものを「一城別郭の城」と言います

奥が郭馬出し、手前は二の丸に続く 

「木俣」の郭と南側曲輪の間を繋ぐ
土橋と堀切

大堀切は圧巻ですが、この辺りも凄いです

三の丸門跡と石垣
往時には、この門跡の両側の石垣の上を渡した
櫓があり、その下が通路であった

派手さはないが、苔むした、
“埋もれた古城”的感じの一番する部分です
 
三の丸石垣
この部分は、右側は大きな石、
左側は小さな石で積み上げられています

三の丸は二の丸の西側にあたります

三の丸

鍛冶曲輪の石垣

石垣類のほとんどは井伊直政時代の構築と想定されています

虎韜門跡(ことうもんあと)
長野氏時代は、こちらが
搦手口であった
大堀切の西下を守る要点であった

虎韜とは、中国の昔の兵書
「六韜三略」(りくとうさんりゃく)の
虎韜(虎の巻)から命名
白川口埋門跡
虎韜門から白川河原に出る
秘密の通路で、埋門があった

この埋門は、一城別郭の有力支城で
ある鷹留城(榛名町室田)や、周辺に
築かれた多数の支城や砦との連絡
や入出撃に利用された
白川口埋門の通路部分
虎口(出入口)の両側に石垣を積み、上に木や石を渡して土手をその上に盛り、トンネル式に作った門を埋門と言います
画像では判りにくい(下から撮影)
と思いますが、通路両側には石垣が
積まれています
本丸門前の曲尺馬出し

本丸南側の門手前の虎口(出入口)
には、突き出すように馬出が設けられ、
虎口前の側面攻撃が出来るように
なっている

本丸門跡

本丸に建つ箕輪城址銘碑

本丸の腰巻土塁
この腰巻土塁は、本丸東面から、本丸北側の御前曲輪東面まで続いている
本丸および御前曲輪の東側は、城域外との比高が少ないため、城内を敵に見えないようにしてあります
現在、発掘調査中の本丸
本丸は、北側に続く御前曲輪とともに
この城の中枢部であります

南北約百m、東西約70mの広さ
本丸と御前曲輪の間の空堀
東側(手前)は浅く、西側(奥)が深くなっていて、本丸及び御前曲輪西側の空堀に降りる通路としても使用されていた
御前曲輪
本丸の一部にあたる、詰めの場所・
城の精神的な中心であった

西南の角には、物見・戦闘指揮の
ための櫓があり、その下は石垣で
固められていた
 (下図参照 ↓)
箕輪将兵の慰霊碑
落城のさなか、若き城主業盛は御前
曲輪の持仏堂に入り、割腹自刃し、
戦乱の露と消えていった

戦乱に散った多くの将兵に黙祷・献花
井戸

御前曲輪西面ほぼ中央に残るが、中は深く底は見えませんでした
昭和2年に発見

御前曲輪西南角の櫓台下の
石垣と堀切

堀底は、現在、大部分が遊歩道
として整備されています

本丸と蔵屋敷曲輪との間の堀切
堀は屈曲して造られ、堀底の見通し
を妨げ、側面攻撃する横矢の機能も
兼ね備えています

この辺の堀切もスゴイです!
稲荷曲輪と新曲輪との間の
水濠跡

ここでも折れがあり、横矢が
掛かっています
二の丸東側から見た東方遠望

東明屋集落の奥に、朝の到着時には赤城山が見えた
のですが、この帰る頃には見えなくなってしまいました (*_*)

郭馬出し・木俣〜二の丸・三の丸・鍛冶曲輪の間の
大堀切

最後に、大堀切をもう一度
箕輪城最大の見所ですが、この南北に分断する
大堀切は、圧巻の一言!

左下は三の丸、中上が木俣

〓〓 長野業政・業盛父子 〓〓
■ 長野業政(ながのなりまさ)〈1491〜1561〉

 信濃守。関東管領山内上杉憲政の重臣で上野箕輪城主。名は『業正』とも書く。 永禄4年11月22日、箕輪城内にて病没。享年71歳
 在原業平(ありわらのなりひら)(平安時代の歌人。伊勢物語の主人公とされる) の末裔で知勇兼備の名将として、関東を代表する坂東武者の一人。
 長野氏は古くから関東管領山内上杉氏に被官し、業政は、北条氏・武田氏などの大国の狭間にあって、その巧みな戦術と、血縁を糧とした数十に及ぶ支城・砦を配し、西上野を束ねる盟主として君臨し、落日の上杉憲政を最期まで執拗に支え、武田軍の猛攻を六回も防ぎ、『上州の黄班(虎)』と恐れられた勇将。
『業政が上州におる限りこれを奪う事はできぬ』 と信玄に嘆かせたという

∞∞∞ 病の床にて、嫡男・業盛に残した凄まじい遺言 ∞∞∞
『我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首を一つでも多く並べよ。
決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討死せよ。これこそ孝徳と心得るべし。』

 

■ 長野業盛(ながのなりもり)〈1546〜1566〉

 長野業政の嫡子で上野箕輪の若き城主。 左京亮・信濃守
業盛は父・業政の死を固く秘匿したが、それを察知した信玄は執念に燃え、ここぞとばかり西上州に侵攻。支城網を次々と落とされ、上杉氏の救援も無いまま、武田の軍勢2万に城は包囲される。
 対する箕輪篭城兵は僅か1500。城方は死力を尽くして抵抗したが、その中には、後世、“剣聖”と称された『上泉伊勢守信綱(秀綱』の姿もあった。
城主業盛自ら城門を開き討って出、敵28騎を討ち取るなど奮戦したが、衆寡敵せず、ついに終焉の時を迎える。
 城内に戻った業盛は、重臣たちの再起を期して落ち延びる提言に従わず、静かに本丸奥御前曲輪の持仏堂に入り、父・先祖の位牌に三礼した後、割腹自刃した。
時に、永禄9年9月29日 弱冠21歳 短くはかない生涯であった。そのあとを70余騎が殉死。

『春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る箕輪の山里』 【長野業盛 辞世】


 箕輪城址は国史跡であり、広大な城域はいまだ未解明な部分を残していますが、着々と発掘調査が進められ、整備されているので、現地説明会にでも参加して、更に詳しく見てみるために再訪したいと思っています。
今回、スケジュールの都合上行かれませんでしたが、鷹留城下(榛名町)の長野氏菩提寺の長年寺には、初代業尚の他6名の五輪塔があるそうです。 ここも行かなくっちゃ!

箕輪城跡案内図 城跡案内図
(現地案内板より)

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