| 北陸地方 |
| 越前(福井県東部) |
敦賀城 (平 城) 【所在地】 福井県敦賀市結城町
石田三成との堅い友情に殉じ、壮絶な最期を遂げた知将大谷吉継の居城
| 築城時期: 1583年(天正11) | 築城者: 蜂屋頼隆 |
来迎寺表門として移築されている 敦賀城中門 来迎寺 所在地:敦賀市松島町2丁目 |
| 遺 構 《 移築/門 遺構/礎石の一部 》 | |
真願寺前の城址銘碑
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真願寺境内に置かれた乾門礎石
手前の丸い窪みのある石 |
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友情に殉じた知将・大谷吉継の居城として知られる敦賀城は、現在では市街地化して、まったくと言ってよいほど、その姿を消滅させてしまっている。
かつての城域は、北側は真願寺北の堀跡といわれる闇加川、南は八幡神社付近(来迎寺通り)、東は旧笙ノ川、西は敦賀病院の西の通りぐらいではないかといわれている。 敦賀西小学校の門横には敦賀城の案内碑が、また、真願寺門前には、城址碑が建っています。
1600年(慶長5)の“関が原の戦い”で、親友石田三成の加担要請により西軍に与した大谷吉継は、関が原の戦場で自刃し、戦後、所領は没収された。
その後、敦賀は福井城主・結城(松平)秀康の所領となり、代官が置かれた。
1616年(元和2)の一国一城令により、敦賀城は破却された。
後に、その中心部へ、若狭小浜酒井家の御茶屋・町奉行所・代官所が置かれた。
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八幡神社境内の敦賀郷土博物館前に置かれている表門の礎石 |
来迎寺境内にあった大谷吉継の旗
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秀吉をして、「百万の兵を預け、指揮を取らせてみたい」と言わしめた名将
幼い頃より豊臣秀吉に仕え、次第に頭角を現し、越前敦賀城主となる。石田三成や浅野長政らとともに、豊臣政権内では官僚派の有力大名の一人として名を挙げる 吉継はハンセン氏病を患い、晩年には目も不自由になり、歩行も困難なほどに悪化していた。彼の娘が真田雪村(信繁)の正室であり、文禄3年には上野(群馬県)草津温泉を訪れ、「草津の湯は眼によく効いた」と直井兼続に宛てた書状に記している ある時秀吉の前で諸将が居並び、茶を回し飲みした。その頃すで病に冒されていた吉継は、茶を飲もうとしたとき鼻汁を椀の中に落としてしまった。それを見た諸将は気持ち悪がって飲んだふりだけして次々と椀を回していったところ、三成はそれを知っていたが何喰わぬ顔をして飲み干した。この時吉継は、三成のためには全力で協力しようと心に誓ったという。
■ 1559(永禄2)〜1600(慶長5)、近江国伊香郡の出自で大谷吉房の子と伝えられ、幼名を紀之介という
秀吉の死後、天下掌握の野望に走り出した徳川家康は、会津の上杉討伐に向かう。この時、吉継も家康に従軍すべく敦賀を出陣したが、
途中佐和山城に立ち寄ったおり、三成から家康打倒の決心を明かされ、加担要請を受ける。
吉継は2000の兵で関ヶ原の西、松尾山の麓に陣を構える。小早川秀秋の挙動に不信感を抱く吉継は、秀秋の裏切に備えて自らその盾となる覚悟を秘めての布陣であった。
さすがの大谷隊も壊滅し、西軍首脳が次々と戦場を離脱・逃亡していく中で、吉継はただ一人、関が原の決戦場で自刃し、家来の湯浅五助がその首を土中深く埋めたという。
「知将」と呼べる、戦国の世には類稀なタイプの名将の壮絶な最期であった・・・・・享年42歳。 合掌
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