| 北陸地方 |
| 越前(福井県東部) |
金森長近の築城、小京都越前大野は朝倉義景終焉の地
越前 大野城 別称=亀山城 (平山城) 【所在地】 福井県大野市城町
| 築城時期: 1576年(天正4) | 築城者: 金森長近 |
大天守と天狗書院 1775年(安永4)の大火で焼失、昭和43年に復興 |
| 遺 構 《 移築/門 復元/大天守・天狗書院・門 遺構/曲輪・石垣・堀 》 | |
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北陸の小京都と呼ばれる越前大野は、周囲を千m級の山々に囲まれ、整然と短冊状に区画された街並みを持つ城下町です。
金森長近が入封した翌年から進められた大野城下の本格的な建設は、南北に6筋、東西に6筋の通りで町割りをして、山側から武家屋敷・町家、その外側を囲むように寺町を置いた。
大野の有名なものとして、長近が城下を建設してまもなく始められたと伝えられる七間朝市があり、生活に密着した朝市として、現代まで続いている。
1586年(天正14)、長近は飛騨高山へ転封となり、その後、長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄(信長の孫=信雄の長男)と続き、関が原の後、福井藩の直轄領となり、土屋正明・忠次親子、小栗正勝が城代として入り、1624年(寛永元)、松平直政(結城秀康の3男)が5万石で入り城主となった。
寛永12年、直政が信濃松本に移り、替わって松平直基(結城秀康の4男)が越前勝山より5万石で入封する。直基が羽前山形(山形県山形市)へ移った後(1644年・正保元)、さらにまたその弟の松平直良(結城秀康の5男)が同じく越前勝山より3万5千石で入り、子の直明が継ぐ。
1682年(天和2)、松平直明が播磨明石へ移り、替わりに、別家をたてていたが、老中を辞任した土井利房(土井利勝の3男{4男とも})が4万石で入り、以後土井家が8代続いて明治を迎えた。
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麓の駐車場からの亀山遠望
山頂の建物は大天守(右)と天狗書院 |
二の丸跡に建つ大野市郷土歴史観(左の建物)と土井利忠を祀る柳廻社 左後方の山裾が亀山への登城口です |
南登り口に復元されている搦手門
柳廻社の裏手にあります |
江戸時代の登城道 「百間坂」
ここで左に分かれて、整備された旧登山道を行きます 他にも遊歩道が整備されていますが、かつて、 本丸へは百間坂以外に道は無かった |
本丸城門跡
土井利忠銅像を過ぎてしばらく行くと、 山頂近くの石垣のところにあります |
越前大野城の石碑
近くには金森長近銅像もあります |
お福ケ池
金森長近の正室、お福の方の名をもつ湧水池です |
武器櫓跡
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天守曲輪への虎口石段
通称 「武者登り」 |
天狗書院 (東面)
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大天守と天狗書院 (東面)
かつては、この他に小天守を設けた 連結式の3基の天守群であった そのため、天狗書院を小天守と呼ぶこともあるそうです |
天守台北側石垣と石段 |
大天守より見た本丸跡 (南方向)
手前が案内板(瓦部分)と武者登りです |
大天守からの南方向遠望
北陸の小京都と呼ばれる町並みは、金森長近によって 短冊状に区画された城下町です |
鳥瞰図
(現地案内板より) |
金森長近 銅像
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金森長近52歳の時に入封し、新城を築城し、今なお残る碁盤の目の街並みが建設された越前大野は、長近が、その礎となった街造りを施しさらにそれを発展させたのが、徳川幕府譜代の土井氏であったといいます。
土井家の治世は、190年弱の長きにわたり、とくに、幕末の名君と謳われる土井家7代藩主土井利忠は藩政改革を行い、藩借財の整理、藩校(明倫館および洋学館)を開設して洋学を奨励、積極的な殖産興業を行った。 なかでも異彩を放つのは、直営の藩店「大野屋」を大坂・箱館などに開設して物産品を販売。また、洋式帆船「大野丸」を巡航し、幕府の許可を得て北蝦夷地屯田を行い準領地としたことなどである。 |
土井利忠 銅像
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復元された大天守の外観は、美濃岐阜城や越前丸岡城を参考にしたようです。中は資料館となっています。
(冬季の12月1日〜3月31日の間は休館ですので要注意です) なお、山麓には、内堀、百間堀(外堀)の一部が残り、武家屋敷旧内山家もあり、往時の名残を伝えています。 また、市内光明寺には、二の丸城門の鳩門が移築されています。 |
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朝倉義景 墓所
織田信長との戦いに敗れて一乗谷の居城を退いた朝倉義景は、従兄弟の朝倉景鏡の勧めで越前大野に落ちのびた。しかし、景鏡の反逆にあい、天正元年(1573)8月20日六坊賢松寺で自害した。時に義景41歳。 五輪塔の周りには、生母・正室・愛王丸(次男)や 殉死した側近2名の墓がある 一乗寺裏手の賢松寺跡 所在地:大野市泉町 |
墓の隣に設けられたミニサイズの四阿義景庵
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