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ザ・登城

北陸地方

越前(福井県東部)

420年余の風雪に耐えた日本最古の天守

丸岡城 別称=霞ヶ城 (平山城) 【所在地】 福井県坂井郡丸岡町霞

 築城時期:  1576年(天正4)  築城者:  柴田勝豊

まるおか じょう
天守閣 (現存・最古)
外観二層内部3階の前期望楼型天守、屋根は笏谷(しゃくたに)石瓦葺き
昭和23年の福井大震災で倒壊したが、昭和30年に修復再建

 遺 構  《 現存/天守閣  復元/門・井戸  遺構/曲輪・石垣 》
麓北側の平章小学校から見上げた天守 
(撮影グッドポイントです)
麓の「一筆啓上茶屋」
無料駐車場(120台程度)になっています
 丸岡城は、「まるこの丘」と呼ばれる小高い丘の上(標高17m)に天守閣が残されている。 この天守は、国内に残る現存天守閣12基のうちで、最古のものである。

 城跡は霞ケ城公園として管理されているが、天守台の石垣のみ残され、それ以外の石垣はほとんどない。また、五角形をした広大な内堀も大部分が埋め立てられている。

 公園の隅に、歴史民族資料館が建てられており、天守とともに共通券で見学できる。
公園内には400本の吉野桜が植えられ、日本のさくら名所100選に認定されている。


 1575年(天正3)、織田信長は越前の一向一揆を平定するため大軍を派遣し、当時、丸岡の東方4キロの山中にあった豊原寺を攻略し、寺坊をことごとく焼き払った。

 信長より恩賞として越前国を与えられた柴田勝家は、北の庄城を築城した。勝家は甥の柴田勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4年、豊原から移り丸岡城を築いた。

 1582年(天正10)、“清洲会議”をうけて、勝豊は近江長浜城主となり、丸岡城は安井家清が在番した。

 天正11年に、柴田勝家が羽柴秀吉との“賎ケ嶽の戦い”で敗れ滅亡すると、丸岡城は丹羽長秀の持城となり、その後、青山修理亮、子の忠元が4万6千石で城主となる。

 1600年(慶長5)、“関が原の合戦”で青山氏は西軍に与したため改易され、福井城主結城(松平)秀康の所領となり、その家臣の今村盛次、さらに本多成重が城代となった。

 福井藩主松平忠直の改易後の、1624年(寛永元)、本多成重が4万3千石で大名に列し、城主となった。本多氏は、成重から4代続いたが、1695年(元禄8)、御家騒動により領地没収となった。

 替わりに、陣屋挌の越後糸魚川より有馬清純が5万石で入封する。有馬氏が8代約170年居城して明治を迎えた。(丸岡の有馬家は、肥前のキリシタン大名有馬晴信の後裔です)

本丸跡 西側からの登城路石段
本丸への南側虎口 南西側の本丸石垣
別称「霞ケ城」の由来となった井戸「雲の井」 伝説「人柱お静」の慰霊碑
直下より見上げた天守閣
天守閣の高さ12.6m、鯱の高さ1.66m
天守の一層目大入母屋屋根と回縁部分
通し柱が無いのが特徴で、一層は2階・3階を
支える支台をなしている
天守3階よりの南方向遠望
福井平野が一望できます
天守3階よりの西方向遠望
日本有数の稲作穀倉地帯です
珍しい石瓦で葺かれた天守屋根
福井市足羽山や一乗谷付近で砕石
される笏谷石で、青みを帯びた石は、
雨に濡れるといっそうその色合いを
深めて美しい

1枚の重さ20〜50kg、約6000枚
使用され、その総重量約120トン
石落とし

石垣に張り付いた敵に対し、床から
石を落として防御する

雨水流入を防ぐ天守土台回りの板庇

豪雪地帯のため、外壁に比べて
天守台石垣が一回り大きく
出張っている

天守台石垣の高さは6m

天守内部階段(1〜2階)

ほとんど垂直に近い急勾配で、
ロープが付けられています

天守内部階段(2〜3階)
侍たちは、重たい鎧・兜や武具を
身にまとい、なんなく駆け登った
ことだろう!・・・・・
連子窓と鉄砲用の箱狭間(内部)

弓矢用の竪狭間と交互に
周囲20ケ所に設けられている

突上戸付き連子窓と箱狭間(外部) 入母屋部内室の明かり窓 入母屋拝み部に付く懸魚(けぎょ)
を内側から見る
〓〓 「雲の井の大蛇」 伝説 〓〓
 信長による越前一向一揆平定後、柴田勝家の甥・柴田勝豊は、豊原寺からここに移り築城したが、豊原は一向衆徒の最後の根拠地であり、一揆の残党が攻撃を仕掛けてくることもたびたびであった。
しかし、そのたびごとに、「雲の井」井戸の中から大蛇が現れ、“かすみ”を吐いて城を隠し、城を危機から救った。

 この伝説が、別名「霞ケ城」と呼ばれる所以であり、現在も春先などに、すっぽりと霞に覆われた丸岡城を見ることが出来るという。

〓〓 「人柱お静」 伝説 〓〓
 丸岡城築城の折、どうしても天守閣の石垣の一角が崩れてしまうため、人柱を募ったところ、二人の子を抱えて苦しい暮らしをしていた片目の“お静”が、息子の一人を武士に取り立ててもらう約束で、天守中柱の下に埋められた。
ほどなく天守は立派に完成した。しかし、柴田勝豊は他に移封となり、お静の子は侍にしてもらえなかった。

 その後、いつのころからか、約束を反故にされたお静の霊が、毎年、年に一度の藻刈りをする卯月のころになると、春雨で堀の水を溢れさせ困らせた。人々は、「お静の血の涙雨」と呼び、小さな祠を建てて、お静の霊を慰めたという。


◇◇ 丸岡町 ミニ情報 ◇◇

 角川映画「戦国自衛隊」の撮影に使われた丸岡城天守。
野面積みの石垣、質朴な板張りの壁、手斧(ちょうな)の跡も荒々しい掘立柱と梁、 小規模な天守でありながら、力感に溢れ、戦国武将の威風を今に伝え、そこかしこに古武士のイメージを抱かせる、味わい深く、好きな城です。

 城構えはほぼ五角形、丘頂上の本丸を中心に、北の平地に二の丸・東の丸を連郭式に設け、その周囲を最大幅90mの内堀で囲み、内堀外側に三の丸・侍屋敷を配置し、さらに河川を利用した外濠を形成した城下町であったという。

 本多家4代の菩提所は本光院(丸岡町巽町)、さらに東寄りに、有馬家8代の菩提所高岳寺(丸岡町篠岡)があり、歴代藩主の墓標である五輪塔が緑陰に整然と佇んでいます。

 他に、丸岡町長崎の称念寺には、延元3年(1338年)、北朝・足利高経の軍との交戦中、灯明寺畷にて38歳の壮齢で自刃した南朝の忠臣新田義貞が葬られ、天保年間時の福井藩主が建立した五輪塔のある墓所があります。

 明治初期に競売にかけられ、移築されたという旧丸岡城本丸不明門が、高椋(たかぼこ)家表門として現存しているそうです。(元は2階建の櫓門といわれるが、現在、2階部分は失われている)

丸岡城案内図
丸岡城模型
(歴史民族資料館内にあり)[撮影許可済]

「一筆啓上」 書簡碑
(天守閣石垣の東北端に建つ)
「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」

徳川家康譜代第一の功臣、「鬼作左」こと本多作左衛門重次が長篠の陣中から、妻に宛てて書き送ったこの手紙は、“簡潔な手紙の手本”として有名。
「お仙」とは重次の嫡男仙千代、のちの初代丸岡藩主本多成重のことです。

丸岡町では、手紙文化の復活を願い、手紙文の公募を行っており、出版された『日本一短い「母」への手紙』はベストセラーとなり、平成7年には映画にもなった。
丸岡城天守への登城路道筋には、入賞した作品が多数掲示されています。

登城アクセス
 車  : 北陸道丸岡IC〜県道17号線
鉄 道 : JR北陸本線丸岡駅or福井駅〜京福バス/丸岡城
駐車場 : 霞ケ城公園の無料駐車場を利用


丸岡町公式HPへ

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