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北陸地方

越前(福井県東部)

平成の城郭風建造物は有名(?)なれど、本来の城址に遺構は何も無し・・・

越前 勝山城 別称=霞ヶ城  (平 城) 【所在地】 福井県勝山市元町1丁目

 築城時期:  1580年(天正8)  築城者:  柴田勝安


勝山城址 銘碑
この場所は、往時の本丸天守台跡にあたる
市役所隣の公民館玄関前にあり

 遺 構  《 無し 》

 勝山城の旧城地には、現在、市役所・市民会館などが建てられていて遺構は何も無い。
城内にあった建物は、明治初期にすべて取り壊されてしまった。また、天守台や石垣は近年まで存在していたが、公共施設建設の際に取り払われてしまい、この一帯に城があったことを示す石碑と縄張図がある案内板が建つのみである。

 市内平泉町には、観光用の城もどき、「勝山城博物館」が建てられてはいるが、昭和40年代まで存在していた天守台や石垣が撤去されてしまったことは、非常に残念なことである。


 1580年(天正8)、柴田勝家の一族の柴田勝安が、九頭竜川右岸の河岸段丘上に築城して、地名も勝山と改めた。
“賎ケ嶽の戦い”で柴田氏が滅亡した後、成田重政、長谷川秀一が城主となった。

 “関が原の合戦”の翌年の1601年(慶長6)、越前一国は結城(松平)秀康の領国となり、勝山には代官が置かれた。
 1624年(寛永元)、結城秀康の5男松平直基が3万石を領して立藩。寛永12年、直基は越前大野に移り、替わって、直基の弟の松平直良が3万5千石で入って城主となる。その直良も、1644年(正保元)には越前大野へ移封となり、勝山は天領となった。

 1692年(元禄4)、小笠原貞信が美濃高須(岐阜県海津町)から22,000石で 入封するが、勝山に城は無く、無城主挌であった。
1708年(宝永5)、古城再建を名目に幕府の築城許可がおり、翌年、小笠原家2代信辰は本丸普請に取り掛かった。
その後、小笠原家は苦しい財政状況のなか、順次、城の拡張・整備を重ね、1826年(文政9)、ようやく城を完成させた。なお、小笠原家8代長守の時に明治維新を迎えている。

中央公園となっている二の丸跡  堀の名残り(?)の東御門橋跡
縄張図
(現地案内板より)

勝山城博物館
姫路城のレプリカ?の昭和⇔平成の新城!
五層6階の天守と二層の小天守を渡り櫓でつないでいます
天守の高さは日本一(57.8m)だそうです
それにしても、“尾張名古屋は城でもつ”の徳川御三家筆頭の巨城(55.51m)を凌ぐドエライもんを造ったもんです! 
 小笠原家が細々と約135年もの歳月をかけて築き上げた、由緒正しい勝山城は、公共物建設のために全てが取り払われてしまったが、「恐竜の里」勝山市には、『越前大仏』・『勝山城博物館』のようなティラノサウルスも腰を抜かすような巨大建造物が創られ、多くの観光客を集めています。
勝山城博物館に興味のある方は、こちら

天守台石垣レリーフの9頭の龍
には驚かされます

(勝山市を流れる九頭竜川と、
市内から発見される恐竜化石
にちなんだものだそうです)

 博物館に着いた途端、激しい雷雨に見舞われ、もう一つの目玉であった“中世の宗教都市”「白山平泉寺旧境内」(平泉寺白山神社)に廻りそびれてしまい、機会があれば訪寺してみたいものです
 富士山・立山と並ぶ「日本三霊山」の白山は、古代から信仰の対象として崇められた。泰澄大師によって開山された平泉寺は、中世から戦国にかけて隆盛を極め、9万石・9万貫の領地をもち、48社・36堂・6000坊を数えた一帯には万に近い人々が暮らし、大きな富と権力を得ていたという。

 朝倉氏の祈願所でもあった平泉寺は、織田信長の台頭により、朝倉景鏡とともに義景に反逆し、結果、“越前の雄”朝倉氏は、天正元年に滅亡してしまう。
 そして、翌年、越前一向一揆宗徒に攻め込まれた平泉寺は全てが灰塵に帰したという。 


平泉寺白山神社については、こちらをどうぞ

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