| 北陸地方 |
| 越前(福井県東部) |
家康次男の結城秀康を藩祖とする御家門筆頭・越前松平家の本城
福井城 別称=北の庄城 (平 城) 【所在地】 福井県福井市大手3丁目
| 築城時期: 1601年(慶長6) | 築城者: 結城(松平)秀康 |
本丸石垣と内堀 (南東角) |
| 遺 構 《 遺構/曲輪・天守台・石垣・堀・井戸 》 | |
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福井城は、徳川家康の次男・結城秀康が入封して築かれた環郭式の近世城郭で、本丸・二の丸は家康自らが縄張りしたという。
北陸の要として威容を誇った福井城も現在では、幾重にも巡らされた堀は完全に埋め尽くされ、本丸四周の内堀と、天守台を擁する本丸のみが残るだけである。
現在、本丸内には福井県警本部・福井県庁・福井県議会議事堂の三つの建物が建てられているが、本丸の北西角には天守台が残り、かつては、二重の櫓の上に二重の望楼を乗せた形式を持つ外観四重、内部五階の天守閣が聳えていたという。
満々と水を蓄えた幅の広い内堀と、笏谷石(しゃくだにいし・凝灰岩)のみを用いて布積み工法で精巧に積まれた石組みの天守台および本丸石垣は、壮大で一見の価値があります。 福井城は、柴田勝家の築いた北の庄城より北側に本丸を移して築城され、当初、北の庄城と呼ばれたが、3代目忠昌のとき、「北」は敗北に通じるとして「北の庄」を「福居(のちに福井)」と改められている。柴田勝家築城の北の庄城とは別個に掲載致しました。
秀康は、慶長6年より荒廃した北の庄城の築城を始め、北陸諸大名の築城御手伝のもと、6年かけて完成させた。
2代藩主・松平忠直は、1622年(元和8)、乱行のために改易となり豊後に配流され、弟(秀康の次男)忠昌が越後高田より55万石を領して越前松平家3代目となった。(忠昌の替わりに、忠直の長男・光長が越後高田に入る)
徳川御家門筆頭の越前松平家は、7代吉品(5代将軍綱吉の片諱をもらって改名した5代昌親の幕命による再勤)の時に半知の25万石となるが、その後、17代続いて明治を迎える。
従兄弟の12代将軍家慶の命により、徳川御三卿の田安家から越前松平家を継いだ16代藩主・慶永(隠居後に春嶽を号す)は、幕末動乱期において、一時謹慎の身となるも、将軍となる一橋慶喜の後見職となり公武合体を推進するなど、進歩的な宰相として活躍をした。
当初、御家門筆頭の結城秀康は長幼に順の通り、御三家を上回る68万石で封じられたが、最終的な禄高は、御三家の尾張徳川家61.9万石、紀州徳川家55.5万石、水戸徳川家の35万石に対し 藩主に恵まれなかった越前松平家宗家は32万石であった。
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本丸西側内堀に架かる御廊下橋
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本丸西側内堀に架かる廊下橋から南方向を見る
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山里口門(埋御門)跡
本丸西面の虎口で、本丸内堀を廊下橋で 渡ったところの門跡です |
本丸南西角にある天守台の南面
かつて存在した天守閣の規模は、総高約28m、一層目の広さは、梁行10間(約19.7m)・桁行12間(約23.6m)であった |
天守台南面の石段周辺
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勾配の急な天守台石段
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天守台にある福井の地名発祥の由来となった「福の井」井戸 |
一段目の控え天守台
昭和23年の福井地震で崩壊したままになっています |
天守台二段目への虎口
東側に位置しています |
天守台上の北半分に残る礎石群と左画像の虎口
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本丸への大手口となる御本城橋
奥の建物は福井県庁です |
御本城橋からの本丸内堀
石垣は南西角部分です |
本丸にある結城秀康石像
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本丸石塁への雁木(石段)
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本丸北側の不明門(北御門)口
本丸への3ケ所ある虎口のうち、 ここだけは一般車両通行止めになっています |
本丸内堀北面
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福井城本丸平面図
(現地案内板より) |
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「薄幸・不運の嫡流」 結城秀康
徳川家康の次男結城秀康は、1574年(天正2)遠江国に出生した。幼名於義丸、生母は側室お万の方という。
この於義丸誕生について父家康は余り喜ばず、通称「鬼作左」と呼ばれた本多作左衛門重次に預けた。兄信康の世話で父子対面を果たしたのは2歳(5歳とも)の時という。
その後の秀康は、父家康と豊臣秀吉という時の権力者のはざまで、数奇な運命を辿ることとなる。
天正15年、14歳で秀吉の九州征伐に初陣し、天正18年の秀吉による小田原攻めの後、関東の名族・結城晴朝は秀吉に乞い、秀康を嗣子とし、結城秀康を称し、秀康は下総結城に入る。
1600年(慶長5)、家康が会津の上杉征伐に北上するや秀康もこれに従って下野宇都宮に陣し、石田三成の挙兵に家康はじめ諸将は引き返したが、秀康は宇都宮に留まり、上杉勢の西上を防いだ。
慶長10年、舎弟秀忠が2代将軍に就任。翌年、家康より伏見城の留守居を命じられたが病のため辞し、翌12年3月、越前に帰国、同年(1607)4月8日、北の庄城にて失意のうちに病没。34歳であった。 あるとき、秀康は伏見の邸に於国歌舞伎を召し出し見物したが、彼女が水晶の数珠を襟にかけていたのを見、具足箱より珊瑚の数珠を出して与え、「汝は天下一人と称される女、我は天下一人の男になる事叶わず。女にさへ劣りぬるは無念なり」とハラハラと落涙したという。
「御制外の家の悲劇」 松平忠直
松平忠直は徳川家康の次男結城秀康の嫡子として、1595年(文禄4)大坂で生まれた。
父秀康は、兄の信康が自害させられたことから、本来ならば家康の跡継ぎとして、江戸幕府第2代将軍の地位に就くべき立場だったが、前述の通り、その出生から父に疎まれ、その後の二度にわたる養子縁組と、数奇な運命を辿る。
父の無念は忠直に受け継がれていたといわれるが、父からよい家臣をも受け継いでいた。しかし、幼い忠直にはかれらを統制することはできず、1613年(慶長18)、家臣間内紛の「越前騒動」となる。この争いが江戸に持ち込まれ、家康・秀忠同席の上直接裁決されたことから、「御制外の家」としての越前松平家の汚点となってしまった。
翌19年の大阪冬の陣、忠直は先陣を争い、あの真田丸を攻めた。翌年の戦国最後の戦い“大坂夏の陣”では、忠直の越前隊鉄砲頭西尾久作が真田雪村(信繁)を討ち取り、その働きぶりを祖父家康に賞賛され、名宝の茶器が贈られた。
越前松平家は徳川家にとって別格として扱われたことで、その立場は大きくなっていく。将軍家の脅威にもなり兼ねない。まして気性が激しかったといわれる忠直は、幕府から要注意人物になっても仕方のない立場であったろう。
忠直は一国女を愛した。(一国女とは一つの国にも替え難い価値ある女性という意味) この女性は日ごろ、笑うことを知らなかった。ところが、あるとき、妊婦の処刑を見て笑いを浮かべた。
〓 福井藩士の記録書「続片聾記(ぞくへんろうき)」の「一国女」による 〓
この他多くの忠直の乱行は、真偽の疑わしいところがあり、忠直に憤懣はあったが、自身は領地をよく治め、領民に慕われる君主であったという。
しかし忠直の命運はやがて尽きる。1622年(元和8)にはついに改易となり、九州の豊後萩原に配流となる。 その僅か5ケ月後、秀忠の嫡子家光が3代将軍を継いだ。
忠直は、配流地の豊後ではつつましく生活していたようであり、1650年(慶安3)、配所で没した。享年56歳。
なお、忠直の嫡子光長は、伯父の忠昌と交替で越後高田26万石に減転封されるが、光長もまた、継嗣を巡る重臣の対立である越後騒動にて除封され、伊予松山に配流となる。
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◇◇ 城郭復元の情報 ◇◇
福井市の「福井城の復元をすすめる会」では、福井城巽櫓の復元計画をすすめています。
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