| 北陸地方 |
| 加賀(石川県南部) |
加賀一向一揆門徒、最後の抵抗拠点
鳥越城 別称=別宮城 (山 城) 【所在地】 石川県石川郡鳥越村三坂
更新 合併(2005.02.01)により 石川県白山市三坂町 に住所変更
| 築城時期: 天文年間(1532〜1555年) | 築城者: 鈴木出羽守 |
本丸南前面の櫓門(右)と枡形門(左)を見る 枡形の東方(手前)は深い堀切になっています |
| 遺 構 《 模擬/櫓門・門 遺構/曲輪・石垣・土塁・堀切・空堀・井戸跡 》 | |
早朝ですが、門徒が幟を揚げてお出迎え
(実は、まつり直前のための準備でした) |
道路脇に立派な登口の石碑が鎮座
|
ここから車で山上へ登城です
|
林道途中の出丸跡に建つ城址石碑
|
|
鳥越城は、大日・手取両川の合流点に位置する鳥越山の丘陵先端部(主郭部の標高は312m)を利用して築かれ、その城域は、東西約400m、南北約1200mにおよび、連郭式の縄張りとなっている。
本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸の5つの曲輪と、3つの腰曲輪によって構成されている。
その後、元亀〜天正年間前半(1570〜80)にかけて、織田軍の来襲に備えて修築拡充が行われ、二曲城・瀬戸砦・尾添砦などが整備されるなど白山麓の要塞化が進められた。
1580年(天正8)、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、加賀一向一揆の拠点金沢(尾山)御坊が落城。鳥越城は、一揆勢の最後の拠点となり、徹底抗戦を続けたが、柴田勝家らの猛攻によって同年、遂に落城し、鈴木出羽守一族は謀殺される。
翌年、最後まで抵抗を続ける一揆方の山内衆は蜂起し、織田方の吉原・毛利両氏
を倒し、城の奪還に成功するが柴田軍佐久間盛政によって鎮圧された。
こうして、加賀一向一揆は織田信長の前に沈黙させられたのである。
|
|
後三の丸跡 |
後三の丸から後二の丸北西直下の後三の丸腰曲輪への土橋 図中のA |
本丸を護る南面から二の丸への枡形門
城内で唯一石垣で3方を固めた高麗門形式 後方は本丸櫓門 |
枡形門裏(本丸)側
内枡形で、この施設は織田軍による修築です |
本丸櫓門
4本柱の掘立柱による門で、 南端は高い土塁が築かれている |
南側より望んだ本丸の現状
掘立柱建物3棟、礎石建物2棟が平面標示されており、 櫓門右(東)脇の土塁には一段高い望楼台(画像手前部分) が設けられている |
本丸に標示されている井戸跡
他に、埋瓶もあります |
本丸北端から見た後二の丸
間を区切る空堀は深く、圧倒的な迫力がある |
本丸土塁上からの北方向遠望
大日川と手取川が合流しています |
本丸土塁上からの東方向遠望
|
本丸土塁上からの西方向遠望
一向一揆歴史館および 二曲城跡があります |
本丸南面枡形の東側(二の丸北面外側)の現状
柵列と冠木門が設けられています 図中のB |
二の丸跡
土塁が全周し、南西隅と東縁の2ヶ所に 隅櫓の礎石建物跡があります |
中の丸門
坂道を下ると、腰曲輪南端の通路に繋がる |
二の丸から南方の三の丸に向かう土橋と通路
(三の丸跡は整備されていません) この通路を下ると山麓の釜清水別宮に向かいます |
二の丸北東面の柵列
眼下には、在りし日の残虐行為を忘れたように、 のどかな田園風景が広がっていました |
配置図
(現地案内板より) |
|
|
鳥越城は、昭和52(1977)年から三ヵ年の緊急調査によって、多大な成果があり、
昭和60年(1985)国指定史跡となった。その後、平成2年より環境整備のための発掘調査が実施され、平成13年に整備復元が完成した。
本丸・二の丸で検出された遺構は、一揆勢と織田軍改修の2時期があり、虎口に伴なう石垣はすべて織田軍によるものであることがわかった。
近くの山麓には、道の駅「一向一揆の里」の構内に、「鳥越村一向一揆歴史館」が併設されていて、一向一揆に関する映画上映や資料があり、国指定史跡「鳥越城跡附二曲城跡」からの出土遺物が展示されています。 |
|
| 登城アクセス | |
|
車 : 北陸道小松IC〜国道360号線、金沢西IC〜国道157号線
鉄 道 : 北陸鉄道石川線・鶴木駅〜北鉄バス 駐車場 : 山頂近くに鳥越城無料駐車場あり(約30台程度) |
|