ザ・登城TOPへ
ザ・登城

東北地方

岩代(福島県西部)

山麓の建物と、山頂の本丸石垣の両方が楽しめる城

二本松城 別称=霞ケ城 (平山城) 【所在地】 福島県二本松市郭内三丁目

 築城時期:  嘉吉年間(1441〜1444)  築城者:  畠山満泰

にほんまつ じょう
二の丸箕輪門周辺(復元)
右は二重櫓、中下が箕輪門、中上は平櫓、左が城壁
箕輪門は城の正門にあたり、江戸時代初めの寛永期に、
二本松藩初代藩主・丹羽光重により築造

往時、門の主材の樫の木を箕輪村(現二本松市内)山王寺山の
御神木を使用したことから命名
  昭和57年復元

 遺 構  《 現存/茶室  復元/天守台・櫓・門・塀  遺構/曲輪・石垣・井戸 》
 二本松城は、別名「霞ケ城」といい、現在は城跡が「霞ケ城公園」として整備され、春は桜の名所として市民の憩いの場所となっています。

 城内において、毎年10月1日から11月25日まで開催されている「二本松菊人形展」は、日本最大の菊の祭典としてたいへん有名なもので、菊と紅葉が華麗に調和し、見事で大変美しいものです。
また、10月4〜6日の3日間華々しく繰り広げられる「二本松ちょうちん祭り」は、“日本三大提灯まつり”として、豪華絢爛に丹羽公360年の歴史が生き続けています。

 この城の特徴は、多くの城が時代の変化によって縄張りを変遷させているのに対し、中世城郭と近世城郭が併用されていて、古い時代の姿を留めたまま明治維新を迎えたことです。
縄張りは、細長い谷間の平地を利用して郭や城門を配置した「馬蹄型城郭(U字型城郭)」といわれる形状のもので、山上の本丸石垣等と山麓の二の丸・三の丸の箕輪門周辺が特に見所です。

 山頂部の本丸・天守台跡からの眺めは素晴らしく、二本松の盆地周辺の眺望もきくため、戊辰戦争時、ここから敵の進軍状況などを確認していたのかと思い、感慨深いものがありました。


 二本松城は、嘉吉年間(1441〜1444)に、奥州探題の畠山満泰によって白旗ケ峰に築かれたのが始まりである。以後、140余年、畠山氏9代の居城とした。

 1585年(天正13)、時の城主畠山義継により、伊達政宗の父輝宗が一瞬の隙を突かれ拉致され、阿武隈川畔の“粟の巣の合戦”で政宗により輝宗・義継共々射殺された。翌年、城は伊達政宗の攻撃を受けて落城。その後、伊達領として片倉影綱・伊達成実などが城代として入る。

 1590年(天正18)、秀吉の“奥州仕置”により、城は会津若松城主蒲生氏郷の支配下に入り、石垣が積まれ、近世城郭として機能しはじめる。
 その後、上杉・蒲生・加藤氏の会津入封に伴い、その管理下に置かれ各々城代が置かれ、1628年(寛永5)には、加藤明利(嘉明の次男)が城主となる。

 1643年(寛永20)、加藤家の領地返上により、磐城白河小峰より丹羽長重が10万余石で移封され、光重は10年の歳月を費やして城を改修して山城を廃し、山麓に居城を設け近世城郭としての体裁を整えた。

 1868年(慶長4)7月29日、“戊辰の役”での新政府軍との徹底抗戦により城内・家中屋敷の全てを焼失し、城は2度目の落城となる。

 明治2年(1869)藩籍奉還し、丹羽氏は12代220年余続き、長裕のとき藩知事となる。

無料駐車場に着くと、まず、高々と築き上げられた
石垣上の城壁と二重櫓が出迎えてくれます
霞ケ城址銘碑と二本松少年隊像
後方建物は二重櫓
藩兵集合地である“千人溜”に建つ
「二本松少年隊」の群像
会津藩の白虎隊のような組織的ではないが、12から17歳
の少年達62名が出陣し、16名が犠牲となった 合掌

気をとりなおし、いざっ 正門(箕輪門)から登城です

振り返って、二重櫓・箕輪門・平櫓を見る(裏側) 箕輪門を過ぎて、御殿跡へ入る塀重門跡に残る
枡形(虎口)石垣
日本最大の菊の祭典“二本松の
菊人形”展が開催されていました
20万人以上の観菊客が訪れる
そうで、豪華絢爛です
城名とは裏腹に城域に松の大木は多いが、登城散策路には、こんな老木(アカマツ)も・・・(ほんと、注意して下さい)

白旗ケ峰の少年の丘(砲術稽古場跡)削平地に建つ「二本松少年隊顕彰碑」

洗心亭(明治31年再移築復元)
城内に幾つかあった茶亭の一つで、1837年(天保8)、崖崩れのため阿武隈川畔・地蔵河原に釣茶屋として移築されていたもの

17世紀中頃の創建と推定

搦手門跡石垣

門柱の礎石もあります

日影の井戸
深さ約16m、今でも豊富な
湧水を溜めています

「日本の三井」の一つ
本丸石垣(東南面)
手前右の石垣は東櫓跡櫓台です

発掘調査の結果、ともに会津領支城だった時代の、慶長期の蒲生氏郷による“穴太積み”様式、および加藤明利城主の元和・寛永期の様式、さらに、丹羽氏の江戸時代後半期の3つの時代の石垣が確認されたそうです
平成7年修築復元
天守台跡

本丸北角の奥部
(台形の形をした本丸の底辺右角に相当)
に位置している

往時、天守閣建物は存在しなかった

本丸石段&枡形虎口

本丸跡
真新しく、草一本生えていない
のが印象的でした

本丸西櫓跡櫓台(石垣)

旧三の丸より見た旧二の丸大石垣

左が大石垣で上が本丸石垣、右側は現代の要壁で遺構ではありません

山頂の曲輪群は、会津若松城主・加藤嘉明の時代に、支城として加藤明利が城主だった頃に大改修されています

庭園内の“るり池”

江戸時代に作られた、安達太良山中腹より十数キロの峰々をつたわる「二合田用水」より引き水した洗心滝を経由し、布袋滝より流れ落とし溜める池(画面中央が布袋滝)

藩士自刃の地と、その碑
家老・城代・小城代の3名が
責任をとり自刃した場所

二本松藩の戊辰戦争は、官軍7千に対し、約千名の兵力で、藩士の戦死者337名以上・他藩の戦死者208名以上という“戊辰の役”最大の壮烈な戦いだったという

本丸南西角の高石垣

 近くにある、丹羽家菩提寺の大隣寺(二本松市成田町1−532)には、丹羽家累代の墓が祀られ、また、維新の夜明けを前に散っていった二本松少年隊の16名がここに眠っています

 早朝の登城だったので、駐車場に着いた頃は霞がかかっていて、朝もやの中に「二本松少年隊の群像」を拝したときには、戦争は人間を狂気に駆り立てる・・・日本人同士が殺戮しあう内戦の愚かしさを痛感しました。

登城アクセス
  車  : 東北道二本松IC〜国道459号線〜市道
 鉄 道 : JR東北本線二本松駅〜バス
 駐車場 : 霞ケ城公園の無料駐車場を利用

二本松市公式HPへリンク 二本松観光協会HPへリンク
二本松市公式HPへリンク  二本松観光協会HPへリンク

ザ・登城TOPページへ 東北地方の城郭へ
ザ・登城TOPに戻る  東北地方の城郭へ

北海道  ・ 青森県秋田県岩手県山形県宮城県福島県