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ザ・登城

東北地方

岩代(福島県西部)

北に磐梯山、南に猪苗代湖が眺望できる城

猪苗代城[いなわしろじょう] 別称=亀ケ城  (平山城) 【所在地】 福島県耶麻郡猪苗代町字古城町

 築城時期:  1191年(建久2)  築城者:  猪苗代(大炊助)経連

いなわしろ じょう
急峻な土塁と空堀
帯郭より南西を見る

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・空堀・井戸 》
 猪苗代城は、別名“亀ケ城”といい、“亀ケ城址公園”として残され、町民憩いの場となっています。
磐梯山南麗の泥流地形突端部に築かれた平山城で、建物こそ何も残っていませんが、各郭が空堀と土塁で区画され、その空堀の深いこと土塁の高いこと、その規模には圧倒されます。

 城域の南方に猪苗代湖を望み、また、城の高台に立つと、何処からも北方に磐梯山の雄姿を眺めることができ、風光明媚な景色です。


 亀ケ城は、源頼朝から“奥州征伐”の軍功により会津四郡を与えられた三浦氏の一族である佐原義連の孫・大炊助経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称し、鎌倉時代初期の1191年(建久2)に築いたと伝えられています。

 1588年(天正16)、猪苗代氏14代の嫡子盛胤に家督を譲って隠居していた盛国は、盛胤と対立して亀ケ城を乗っ取り、伊達政宗に内応しました。
政宗は翌年、“摺上原の戦い”で芦名義広を破り滅ぼし、会津領を手中にし、若松城に居城しましたが、1590年(天正18)の秀吉による“奥州仕置”により会津を去り、盛国もまた政宗に臣従し、猪苗代氏による支配は終わりました。

 以後、亀ケ城は明治維新まで会津藩東の要として会津領に組み入れられ、各時代を通じて城代が置かれていました。

 1868年(慶長4)の“戊辰の役”の際には、8月21日国境の要衝母成峠を破り一挙に会津に侵入してきた新政府軍に対し、手薄を突かれた猪苗代守備の会津藩兵は、城に火を放って若松に退却しました。

亀ケ城址見取図

亀ケ城址見取図
亀ケ城址公園銘碑 道路脇駐車場にある亀ケ城址公園銘碑
大きな紅葉が赤く色づいていました
後方が枡形虎口の石垣です

図中の中門前が、現在、南北に走る道路になっています
駐車場(二の丸馬場跡)正面に迎える
大手口枡形虎口の石垣

見取図中の赤字、▲現在地の場所
多聞櫓跡の枡形虎口を右折し、
北に進む
石段
石段を登って左折すると胴丸、更に上に登ると本丸下帯郭へ行きますが、右折して角櫓跡のある帯郭に向う
角櫓跡のある帯郭の土塁

この帯郭には児童遊戯施設があります

帯郭から北北西に見える磐梯山
手前は猪苗代小学校
土塁の間の通路を通り、西の二之郭・番小屋跡方向に向う 二之郭および西面土塁
南から北方向を撮影
胴丸の北に位置する二之郭石垣
石段はコンクリート製で後年のものです
本丸跡 本丸跡
後方は磐梯山
何ヶ所残っている本丸土塁の雁木跡 二之郭櫓門跡石垣
石段は遺構ではありません
二之郭井戸門跡
門柱の礎石が両側に残っています

帯郭(南西部分)跡と土塁

空堀と土塁(両側)
左の画像の二之郭下部帯郭を一段下がった空堀で、
幅は十数メートルあります
左側土塁の外(左)側にも、一段下がって削平地があり、
そこにも土塁があります

見取図南西にあたる左角の地点(南から西北を撮影)

 見取図中の三本杉の場所には、井戸跡があり、帯郭南方下段の平地部には、江戸後期の村役人層の中農住宅であった「旧山内家住宅」が移築復元されています。
 また、猪苗代湖が一望できる土津(はにつ)神社(猪苗代町見禰山)奥の院には、会津松平家初代藩主保科正之(徳川2代将軍秀忠の庶子)の遺言により建立祀られた墓所があります。

猪苗代町公式HPへリンク
猪苗代町公式HPへリンク

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