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東北地方

岩代(福島県西部)

会津藩士たちの魂を支えた堅牢優美な名城

会津若松城 別称=鶴ケ城・黒川城  (平山城) 【所在地】 福島県会津若松市追手町

 築城時期:  1384年(至徳元)  築城者:  芦名直盛

つるが じょう
天守閣(外観復元・東面)
五層5階・天守台石垣高さ11m、天守高さ25mの計36m
92年ぶりに、昭和40年再建
天守建物五層までの重さを4本の鉄柱で支え、
現存天守台の石垣には負担を掛けない構造になっている

 遺 構  《 復元/天守閣・櫓・門・長屋  移築/櫓  遺構/曲輪・土塁・石垣・井戸・茶室 》
 “鶴ケ城”の名称で親しまれている会津若松城は、“戊辰の役”での白虎隊の悲劇などで余りにも有名な城であり、また、その規模・威容は東日本有数の城郭でもあります。

 白くそびえ立つ中に、印象的な、真っ赤な高欄が周った五層五階の天守閣(内部は郷土博物館として公開)が再建され、天守に続く走長屋・本丸への表門である鉄門が外観復元されている。
 また本丸には、千利休の子・少庵が建てた茶室麟閣も城外から移築復元されている。 さらに、平成13年には、城内にあった11棟の二重櫓の中で最大の櫓であった干飯櫓と、本丸鉄門から続く南走長屋が、史実・発掘調査を基に、伝統的な工法による木造での復元がなされています。

 城域は、本丸・本丸帯郭・北出丸・西出丸、テニスコートなどに利用されている二の丸・伏兵郭、小公園・県立博物館のある三の丸からなり、石垣や土塁がよく残されており、水堀も現存し、さらに、内郭と外郭の間に16の門を構え、延々10キロにもおよぶ水堀・土塁で囲んだ惣構えの広大な縄張りからなっていました。

 この他に、市内等には、いくつもの遺構などがよく残されていて、会津武士道の誉れ・会津藩士たちの魂を支えた堅牢優美な名城として、往時の面影を今に伝えています。


 会津若松城は、南北朝時代の1384年(至徳元)に芦名直盛が創築したという説がある。

 1589年(天正17)、“摺上原合戦”に勝利し、芦名氏を滅ぼした伊達政宗が居城とした。

 翌年、豊臣秀吉による天下統一後の“奥州仕置”により、半年も右顧左眄した伊達氏は会津を去り、変わりに、織田信長の家臣・娘(冬姫)婿でもあった蒲生氏郷が、“九州平定”・“小田原の役”などの軍功により、また、奥州・伊達氏への押さえとして、秀吉の命により、伊勢松坂より会津(42万石、のちに92万石)に入国する。
氏郷は、1592年(文禄元)、七重の天守閣を築き、城を改修し、城の名を「鶴ケ城」と改め、また、町割りを整備して、黒川から若松と改称しました。

 氏郷の没(40歳)後、幼少の嫡男秀行は下野宇都宮(18万石)に減封され、1598年(慶長3)、越後春日山城より上杉景勝が120万石で入部する。

 景勝は徳川家康との対決に備えて、近くの小田山からの砲撃に不利として、家老直江兼続の指揮により神指ケ原に新城(神指城)を築き始めますが、完成に至らぬまま、“関が原の役”後の翌年(1601年)、羽前米沢(山形県米沢市)30万石に減封となる。

 “関が原の役”の功により、家康の娘・振姫を妻とする蒲生秀行が60万石で返り咲きますが、1611年(慶長16)、会津地方を襲った大地震により、天守閣が傾くなどの大被害を受けます。
その後、蒲生氏は、秀行(30歳)・忠郷(25歳)と若死にし、1627年(寛永4)に、伊予松山城から加藤嘉明が鶴ケ城へ入城する。
(忠郷に嗣子が無く、加藤嘉明と入れ替わりに、羽前上ノ山から伊予松山城に入った忠知(忠郷の弟)も30歳で若死にし、信長と家康の血を引く名族蒲生氏は非運にも断絶する)

 嘉明の跡を継いだ嗣子の明成は、1639年(寛永16)に城の大改修に着手し、 東(廊下橋方向)の大手口を北出丸を経ての北口に改め、地震で傾いていた天守閣を五層に改築するなどして、今日見られる姿の堅固な城に整えた。

 加藤家騒動による明成による領地返上の後、1643年(寛永20)に、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の子(3代将軍家光の異母弟)、名君保科正之が羽前山形(山形県山形市)より23万石で入封する。
正之は、幼い4代将軍家綱の後見となり、徳川幕府の武断政治から文治政治への転換に大きな功績をあげました。孫の正容の代に松平の姓を賜り、徳川親藩となる。

 会津松平藩は、9代松平容保の時の1862年(文久2)、幕命により新たに設けられた京都守護職を任じられ、尊皇攘夷派が横行する京都の治安維持に努め、公武合体に奔走しました。
 結果、1868年(慶応4)の“鳥羽伏見の戦い”で火蓋が切られた“戊辰戦争”で朝敵の筆頭に挙げられ、新政府軍の標的とされ、“奥羽越列藩同盟”もむなしく、同年(明治元)8月23日には若松城下への突入となった。
一ヶ月に及ぶ篭城戦に耐えた孤塁の堅城「鶴ケ城」は、9月22日降伏し、翌日、開城となった。

 断絶を免れた会津松平家は、明治2年(1869)、極寒の地・斗南(青森県東北部)3万石が与えられましたが、明治4年(1871)廃藩となった。

 明治7年、鶴ケ城の残っていた建物は競売にかけられ、廃城とされた。

◆◆◆ 朝敵の汚名を着せられた会津藩の明治維新 ◆◆◆

 1852年(嘉永5)、松平容保が9代会津藩主となった翌年には、“ペリーの来航”があり、国内は開国か攘夷かで分かれ、幕府は開国方針なので、攘夷派は倒幕に発展し、国内は騒然となった。
倒幕派と佐幕派が互いに暗躍し、血なまぐさい事件の続発する京都の治安維持にあたる、新しく設けられた“京都守護職”に乞われた容保は、1862年(文久2)12月、1000余人の藩兵を率いて京に入り、治安維持に当たった。
 しかし、1864年(元治元)の“禁門の変”を経て、1866年(慶長2)には14代将軍家茂が21歳・孝明天皇が36歳の若さで急逝、藩を挙げて尽くし、平和のために掲げた公武合体は、むなしく消え去ることとなる。

 錦旗担ぎ出しに成功した倒幕派に対し、苦境に立たされた幕府は、1867年10月15に“大政奉還”とし、勢いに乗じた倒幕派は、幕府勢力の一掃に乗り出し、“鳥羽伏見の戦い”の後、朝敵の汚名を着せられた会津藩は、その報復を受けることとなる。
恭順を示す会津藩に対し、承服せぬ官軍の標的とされた会津藩は、1868年(慶応4)、“奥羽越列同盟”を結成し、藩を挙げて新政府軍と相対した。しかし、5月1日には白河城が、7月29日には二本松城と長岡城が落城することとなる。
総力戦となった会津藩は、藩士たちを年齢別に、玄武・青龍・朱雀・白虎(隊)と組織し、最後の抗戦となる。同年8月21日、旧幕府軍・新撰組・会津藩兵の守る国境の要衝母成峠が破られ、8月23日には新政府軍の会津城下突入を許してしまう。

〓 白虎隊の悲劇的な最期 〓
 白虎隊二番士中隊は戸の口原で奮戦したが、隊員のうち、20名が隊長とはぐれてしまい、戦場をさまよい、ようやく飯盛山に辿り着いたが、炎と煙に包まれた城下を鶴ケ城落城と誤認し、その場で、20名全員が集団自決(8月23日)を遂げた。
そのうちの一人、飯沼貞吉のみが蘇生し、隊士たちの悲劇的な最期の証言者となっている。彼らの享年は、数え16か17であった・・・・・。

〓 家老西郷頼母一族21名の壮絶な自刃 〓
〓 娘子軍・中野竹子をはじめとする、会津婦女子の健気な自刃と戦死 〓

 最後の拠り所である鶴ケ城に篭城すること一ヶ月、昼夜を問わず砲撃にさらされる熾烈な戦いも、ついに、矢尽き刀折れ、9月22日降伏し、翌23日、一兵の敵も城内に入れぬまま、開城することとなった。
くしくも、この9月22日は、慶応から明治に改元されてから15日目のことであった・・・・・  

明日の夜はいずこの誰かながむらん なれし御城に残す月かげ
同志社大学創設者 新島襄令夫人・山本八重 詠歌
廊下橋&枡形虎口
二の丸から本丸帯郭東側への五軒丁堀に掛る橋で、往時は、敵が攻め寄せた時には切り落とし、また、見透かされないように屋根の有る構造でした
後方建物は天守閣です
茶壺櫓台上から見た廊下橋

凹部を含めた土橋は“水戸違い”(ダムの役割)となり、左右の堀の水位が違います

枡形正面石垣上より見た廊下橋

正面奥は、現在、テニスコートと
なっている二の丸跡

天守閣南東面
土井晩翠が「荒城の月」のモデルとして哀傷した
天守も、古の威容が蘇えった

天守は天守台石垣の北側に寄り、
南側は土塀が囲む天守曲輪の形をとる
天守5階から見た(南方向)走長屋(北→南)
鉄門・干飯(ほしい)櫓

南走長屋・干飯櫓は赤瓦葺き
平成13年木造外観復元

走長屋(北側)
画像左端手前にも南走長屋があります

左は鉄門(裏側)、戊辰戦争時に、
藩主松平容保がここで指揮をとったそうです
鉄(くろがね)門
北出丸から本丸帯郭を経て本丸に通じる
堅固な櫓門形式の表門
天守閣南面

右端建物は、鉄門へ続く(北)走長屋

武者走り石段(左側)

本丸帯郭北面の太鼓門への緊急時昇降用(左右一対になっています)

武者走り石段(右側)
左側の石段が打込みハギ式なのに対して、右側は野面積み式で、石段・石垣の積み方が異なる
太鼓門跡枡形
北出丸から本丸帯郭に通じる大手門で、往時には、
両側石垣上に多聞形式の渡り櫓門が建ち、
中には大太鼓が置かれていた
麟閣(りんかく)入口

本丸内に再移築復元された、茶室施設です

本丸東側石垣上の茶壺櫓跡櫓台
かっては、茶器類・武器類を収めた二重の櫓があり、反対側にあった弓櫓とともに、旧大手口であった廊下橋の横矢掛りとして重要であった
北側部分の石垣は
高さ約19mの扇勾配で見事です
本丸東南角石垣上にある
月見櫓跡櫓台

武器庫としての二重櫓であったが、櫓にかかる月影が素晴らしいため、この名が付いたと言う

御三階石垣台
建物は、市内の阿弥陀寺に
移築現存しています

本丸南方の表御座跡南側に位置
しています

西出丸からの最初の門跡&梅坂 西出丸から本丸帯郭への
弓門(西中門)跡
弓門跡石垣上にある鐘撞堂
戊辰戦争時、新政府軍の砲火が
集中したところだそうです
西出丸北西角の櫓台石垣&水堀
加藤明成の時代に、西および北出丸は増築され、
それまでの連郭式から梯郭式平山城に変更された
天守閣5階から見た本丸跡
この日は、走長屋内で“白虎隊演舞”が行われていました

鶴ケ城歴代城主家紋 鶴ケ城歴代城主家紋
(現地案内板より)
 ■ 天守閣入城料
  大人400円・小中学生150円、天守閣・麟閣共通券は大人500円
  AM8:30〜PM5:00まで(最終入場は4時30分)
 ■ 麟閣入場料 大人200円・小中学生無料

御三階(移築現存)
数奇屋風楼閣状の建物で内部は四階、最上部階段は、
跳ね上げ式で、密議を行う場所として使われたそうです

明治3年(1870)、阿弥陀寺へ移築
阿弥陀寺 住所:会津若松市七日町4−20
甲賀町口郭門跡
侍屋敷の建ち並ぶ郭内と町人街の郭外を、外掘を巡らし区切った石垣の門跡で、16ケ所あった郭門のうちの唯一現存しているもの(片側は破却)

所在地:会津若松市栄町275
天寧寺町土塁

蒲生氏郷が会津に入封し、城の改築に着手した1592年(文禄元)に築造された、外郭と内郭を区画した惣構えの土塁の一部遺構
所在地:会津若松市花春町126

智将 蒲生氏郷の墓
天下統一を果たした豊臣秀吉により、奥羽の押さえとして会津92万石に封じられた氏郷は、僅か5年後に、病のため京都で不帰の人となった
奥州仕置で会津を訪れた秀吉は、ここ「興徳寺」で3泊したという
興徳寺住所:会津若松市栄町2−12
松平家廟所
9代藩主松平容保の墓
東山温泉の入口、院内の山麓の鬱蒼とした森の中に、会津松平家2代〜9代の墓が立ち並んでいます

所在地:会津若松市東山町石山院内

限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山かぜ
蒲生氏郷(レオ飛騨)1556年(弘治2)〜1595(文禄4) 辞世の句

  茶亭 麟閣
 この茶室は、茶人千利休が秀吉の逆鱗にふれ切腹を命じられ、その怒りが利休の子・少庵(しょうあん)に及び、千家茶道が途絶えるのを危ぶんだ時の城主蒲生氏郷は、少庵を会津に匿い、千家再興の道を開いた。その恩義に報い、少庵が氏郷のために建てたものだという。
※ 戊辰戦争後、城下に移築保存されていたものを、平成2年、元の場所に再移築復元

 本丸内に茶室がある城は珍しいのですが、知勇兼備歴戦の名将蒲生氏郷は切支丹大名でもあるが、利休七哲の筆頭格でもあり、なるほどと思わせてくれます。
天守閣との共通入場券500円を購入し、あたふた駈けずり周って、棒になってしまった足を休め、氏郷公を偲びつつ抹茶で一服と、洒落込んでみました・・・

会津若松市内および周辺には、ここに紹介した以外に、まだまだたくさんの史跡・名所があります。
幕末の動乱・明治維新の激動期にさいして、いちばん損な役回りを負わされたのは会津の人々ではなかったか・・・・・そんな想いを抱きながら一日を過ごし、城下をあとにしました。

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